ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ただの引っ越しじゃ終わらない

 この「はてな」にブログを移したのが、4月のこと。1ヶ月を超えた実に中途半端なタイミングで、前のをリセットした。終わりといえば終わりなんだけど、実際にはほんの手始めみたいなものだ。
 現在、新しいページの開設を準備している。リセットしたばかりの前のブログも、がらりと内容を変えて再開する予定。このブログだって、もちろんこのままにはしない。片っ端から変えていくつもりなのだ。
 もちろん、道はかなり険しい。コンテンツもさることながら、デザインだ。新設ページはWordPressだけど、FC2や「はてな」はそれぞれ独自のレイアウト形式を持っている。こういうのを憶えていかないと、サイト開設はできない。
 デザインはぼくの第二の専攻なのだけど、正直長いことサボっていた。前にWeb サイトのデザインをしたのは、AdobeGoLiveがあった(しかもバージョン4)頃。表組みでページレイアウトをしていた頃の話だ。その後、Webデザインの世界にはいろいろなものが導入されていき、ぼくはごく一部だけを憶えた。HTML5は、あくまでも「物書き」のレベルで。文書の構造さえ書ければいいという視点から、若干のタグを憶えただけだったのだ。それが、異なる3種類の環境にいっきに取り組もうというわけで、無茶な話ではあるんだけど、無茶ぐらいしてみないと本気にもなれないのだ。
 基本が教師になっている身としては、Webで稼ぐ必要なんてさらさらない。でも、どうしたらそういうものを作れるのかを知っておかないことには、教師としてだって役に立たないだろう。稼いでいる人たちと同じようなことを体感して、教師としてのアップデートも図りたい、そう思っているのだ。

草野翠に加瀬薫(終)

 今の学生はどうなんだろうか。
 再入学した大学の方で、同級生の多くが校歌に対して冷淡だった理由、一つ思い当たることがある。というのも、みんな負け組意識を持っていたからだ。
 受験組が大半だった頃の日本の大学は、「ほんとは××に入りたかったけど、落ちてここに来てしまった」学生ばかりで占められていた。早稲田の話を書いたけど、まあここだって、実際には「東大に落ちてしかたなしに……」が多いのだ。学部によるけど、基本的に早稲田の入試難易度はとても高くて、早稲田が第一志望程度の学力ではなかなか入れない。で、「早稲田に落ちてやむなく……」が明大に入り、「明大に落ちてやむなく……」が日大や専修に、以下ずっと末端の方まで連鎖して続くことになる。
 だけど、今はどこの大学だって推薦やAOが中心だ。負け組感もなければ対抗心もない。こういう状況だと、どうなんだろうか。なんだか、単純に「知らないのがあたりまえ」になってそうな気がする。なぜなら、積極的に愛する理由も乏しいからだ。「そういうの憶えないことがかっこいいんだよね」なんて(歪んだ)美意識ですらなく、憶えてる同級生に「え、なんで?」なんて不思議そうな顔を向ける、そんな気がする。
 勤務先の専門学校にも校歌はあるけど、全く歌われることがない。入学式は学園合同で、始業式や終業式はそもそもやらなくて、また音楽の授業なんてあるはずないし、合唱部の類も存在せず、歌う場面がなければ歌う人たちもいないのだ。卒業式は単独開催だけど、こういう状況で迎えるから、校歌が流れることもない。


 以上、校歌をめぐる話。隠す気もないけど、書くのもなんだか気恥ずかしくて、卒業した方の母校の名前は書いてない。でも、実はタイトルに隠されてたりするのだ。
 同窓生なら、わかりますよね。でも校歌知らないと無理。こんなとこでも損しちゃう訳ですよ。

草野翠に加瀬薫(4)

 「母校」という言葉の定義、ぼくにとって、その基準は、校歌を歌いたくなるかどうかってとこだろうか。単にそこを卒業すれば母校ってわけじゃない。
 実際こういう記事を書いていると、卒業した高校のことを、思い出したくもないのに思い出す。ここはゴミ溜めのようなところだった。無抵抗な相手に一方的に暴力をふるって恥とも思わないような人格破綻者どもが「教師」の看板掲げてウロウロしていた。
 名前を思い出すのも気分悪くなるような、数学教師がいた。授業を受けたのは1年の時だが、いちばん記憶に残る出来事は2年のときにあった。他の教師が授業をしている教室に突然乱入し、生徒の一人を引きずり出して、クラス全員が見てる廊下で、殴る蹴るの暴行を加えたのだ。理由は「目が合ったら、にやにや笑った」。
 もちろん暴力を実際に行使する教師は、多数派ではない。でも、例外的少数派とはとてもいえないのだ。先に挙げたようなことを日常的にやっていた常習者は5名程度か。また広義では暴力に入る、ビンタとか竹刀で叩くとかも含めれば、その倍くらいは追加される。そして、多数派もそれを否定していなかった。むしろ利用していたといえる。
 「俺たち教師ってのは、
  この狂犬と同じような危険極まりない生き物なんだ。
  もっと怯えろ! 俺たちの話を恐れ入って聞け!」
 これが連中の発していた無言のメッセージだろう。少なくとも、職を賭して人格破綻者たちに抵抗したという教師は、ただの一人もいなかった。
 ここが偉そうに「うちはあんたの母校やで!」なんて言おうものなら、ぼくの望みは孤児になることでしかないだろう。教師は少なくとも反面教師としては役にたつというのがぼくの持論。この学校はほとんどの教師が反面教師という、とても貴重な高校だったわけだ。

草野翠に加瀬薫(3)

 実のところ、ぼくが校歌を憶えたのは、それを歌いたかったからだ。そしてその理由は簡単。入った大学が大好きだったからだ。
 念願かなって入れた「首都圏のメジャー大学」だった。早稲田ではない。でも、早稲田に遠慮する必要もないぐらいのとこではある。そもそも大声で校歌をがなるってのは早稲田的なスタイルで、実際、マスコミ関係でそれをやるから、早稲田の校歌だけやたらと知名度(知音度?)が高い。で、そいつらと張り合ってやりたかったのだ。
 ただ、同級生の中では、やはり異質だった感もある。一緒に歌った記憶はさっぱりないし。
 いわゆるエリート感、そういうのはない。実は ぼくには「母校」と呼べる大学が、もうひとつある。名古屋にある中京大学だ。今では、松竹梅の少なくとも“竹”ではある大学なんだけど、当時はそうではなく、明らかに“梅”。ぼく自身、7つ受けた中の7番目という、かなり残念な志望順位の下での入学だった。でも、ちゃんと校歌が歌える。
 ここで「大学とは何か」の洗礼を受けたのだ。
 元々体育学部が中心だったから、戦後設立のくせに濃厚なバンカラ気質を有していたし、文化会であっても世間の体育会並のタフさを持っていた。そして大学当局ときたら、昭和期の大学ならではのおおらかさ。自由放任というよりは単なる放置レベルで学生に対して無関心で、キャンパス&校舎には真夜中でも出入りでき、部室で徹夜したり酒盛りしたりとか、そんなことがしょっちゅうだった。
 ここもまたぼくにとっては愛すべき母校だ。だから、校歌を歌った。大学の友人たちとも、よく一緒に歌った。歌いながら深夜の八事の街を闊歩したりとかもある(迷惑なもんだね)。
 今だってちゃんと歌える。「やまとしらねの、中京の、八事ヶ丘に…」当時、体育学部は八事にはなかったけど、歌は同じだったんだろうな。室伏さんや真央ちゃんと飲む機会でもあれば、締めに大声で歌うのかもしれない。

草野翠に加瀬薫(2)

 なんであの頃そうだったんだろうか。
 まず言えるのが、自分たちの少し前にいたシラケ世代の影響だ。大人たちが決めたものや、前の時代から受け継がれているものを冷ややかに見送り、興奮すべき時には冷めて見せ、冷めるべき時にはやっぱり冷めている、そんな在り方が時代の美学だったのだ。正月なんてただ日付が変わるだけだし、誕生日だってめんどくさいだけ。感想を求められれば「別に……」、これが昭和後半における美学だったのだ。
 シラケ世代ってのは、年齢的には一回りぐらいは上になる。全共闘のその後に若者だった人たちだ。大学には学生運動がまだ残ってはいたけど、敗勢ははっきりしていて、ただひたすら否定ばかりが残ってしまった時代。ぼくらの年代は、子供として彼らを見た。その背中を見ながら、かっこいいものとは何かを植え付けられていった。
 自分たちが長じてみれば、もうそれはかっこいい世代じゃない。だけど、子供時代に形成されてしまった世界像は、簡単には覆らない。表面上(&主観的には)否定しながらも実質において受け継いでしまっている。
 そう考えると、ぼくたちの世代も、まあ子供たちに見せる背中としては、どうにもあんまり良くなかったね。ひとつ伝えてしまったものは、オタク文化だったんじゃないだろうか。それ以前の世代には、「大人用と子供用」が厳然とあった。でもぼくたちの世代は、堂々とガンプラ作ったりアニソン歌ったりしていた。ドラゴンボールからドラゴンクエストまで、子供のための遊びをいつまでも楽しんでいた。

草野翠に加瀬薫(1)

 ときどきわけもなく歌いたくなる歌がある。大学の校歌だ。「わけもなく」だから、場所だって選ばない。公園をとぼとぼ歩いているときとか、夜の帰宅途中とか、朗らかに口ずさんだりする。車の中でも、よく歌う。ドラレコにも録音されてるわけで、まあ事故とか起こしたら恥ずかしいんだが。
 歌いたくなる理由はわからないけど、歌ってしまうその前提として、動かしがたい事実が一つある。知っているということだ。いくらそんな気分になっても、憶えてなかったら歌いようがない。
 自分の大学の校歌を歌う。これは、ぼくが学生だった昭和終期という時代においては、ドン臭い行為だった。時代と一緒に踊るのを基本にしていて、また他人から見て「イケてるかどうか」をことのほか重要視したぼくだったが、この点は別。入学早々に大学から送られてきた校歌のカセットテープを大喜びで迎えると、一生懸命歌って憶えたのだ。
 今思えば、なんとラッキーだったことか。

深まりゆくiの生活(終)

 ある意味、ぼく自身が、AppleAdobeにとっては、切り捨てるべき「レガシー」なのだろう。メーカーが想定しているユーザーは、言われた範囲内でデフォルトを変えずにアプリを使うような連中だ。従順かつ模範的で、過去のやり方なんて知らない。
 ぼくは、自分のやり方じゃないと気がすまない。独自のフォルダを作りたいし、独自の命名ルールを使いたい。そして、インターフェイスだってそうだ。ずっと使ってきた自分流のやり方にカスタマイズしたいのだ。でも、メーカーの側は、それを嫌う。そして、新しい概念をこしらえては押し付けてくる。そういうことに対応できない人間なんてのは、ieee1394Firewireと変わりゃしないのかもしれない。
 ただ、一つの真実がある。
 実はコンピューティングの要点はデータであって、アプリなんてのはデータ様にかしずく召使に過ぎない。永遠の命を保たせられるべきは、ユーザーによって作られたデータの方にある。
 iPadの―というか、iOSの―仕組みは、アプリケーションを中心にしている。保存されるデータは基本的にアプリケーションごとに分断されていて、乗り越えて使うことが想定されていない。DOS時代のPCのようなものなので、むしろ先祖返りとすら言える。
 かつてAppleは「OpenDoc」を掲げ、商品としてのソフトウェアを「アプリケーションの中で提供される機能」単位まで分解しようとしたことがある。時代を先駆けすぎていて無残に失敗したが、現在のiOSアプリの売られ方なら、むしろやりやすい。そんな時代が来れば、自動的に「データ中心」とならざるをえないだろう。
 その時、ようやく「Pro」は「プロ」になれるわけだ。