ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

デジタル板書はバッチ処理?

 授業はライブだ。楽しいことは必要条件だけど、十分条件じゃない。オーディエンス=学生を興奮させなければならない。
 例えば、発見の驚き。ゲームデザインについての「そうだったのかーっ!」経験をさせるということ。あるいは、問題自体への気付きとか。「あ、言われてみれば、それって変じゃないかっ!」経験ってことかな。それ以外にもいろいろある。
 では、どうしたらいいのか。知的な興奮というのは本を読んだって得られる。でも、せっかく時間と空間を共有しているっていうのに、それと同じことしかできないんじゃ、意味はない。うまく“演奏”してやらないといけないのだ。少なくとも、自分自身では本を開こうとしない連中にも“聴かせ”られる程度にはね。この辺が、ライブのライブたるところだ。
 何はなくとも「本気」は必要だ。計算づくじゃ、相手は興奮しない。自分自身の興奮が最初にないとだめなのだ。ただ、自分の興奮そのままぶつけたところで、相手は白けるだけ。コントロールされていなければいけない。一見暴走しているようで、実際にどこに飛んで行くのか解らない危うさがあって、それでいてちゃんと最後にはストンと落ちる。最初から予定していた着地ポイントへ……。

 講師として教室に立った10数年前から、こんなことを考えていた。授業には、ライブのノリを大切にしたいと思ってきたのだ。一応きっちりと準備をする。でもそれをきっちりとは固めない。大切なのは、その場のノリと勢いで、予定調和はほどほどに……そんなやり方で進めてきた。
 ただ、わけあって、最近「作り込み要素」の導入を始めた。PowerPointのスライドを使うってことだ。こうなると、ずっと追求してきたライブ性はいっきに下がってしまう。もちろん、大きな流れの中にアドリブ的な要素を絡めることはできるけど、全体的に見てあからさまな予定調和になってしまうのだ。


 プレゼンテーションにおけるPowerPointの害悪が、最近はあちこちで語られるようになっている。批判の文脈はいろいろだけど、「本来あるべきプレゼンが損なわれている!」が、大きいようだ。
 元々プレゼンは「打ち合わせ」の延長にあったと言える。関係者が集まり、その座の中心に提案者がいる。彼はいくつもの資料を用意してこの場に臨んでいるが、その全てを使うことはなく、その場で必要になったときへの備えだ。実際、質問や提案もその場で行われる。議論の流れができあがったり、それに沿った再提案がなされたり。そんなプレゼンは、集団による意志形成の場でもあった。
 だけどPowerPointの登場で、これが変わってしまった。「スライド見せながらだらだらと続ける、一方的なお喋り」になってしまったのだ。今の提案者は「質問は最後にまとめてお願いします」なんてことを、平気で言う。何しろPowerPointのスライドはもう出来上がってしまっているから、予定外のイベントが発生しても困るわけだ。そして映しだされるスライドときたら、文字数字がやたらと多い。というのも、同じ内容のコピーを配ることが慣習になっていて、それが文書としても利用可能(出張報告書に綴じ込むとか)でないと、出席者からクレームが出るからだ。
 でも、そもそもレポートに書いてある内容を読み上げるだけなら、わざわざ集まるまでもない。レポートなら速読もできるけど、他人のトークを早送りで聞くわけにはいかないし。となると、プレゼンというのは「文書を読まない人のために行う朗読会」の様相を呈してきてしまう。
 まあ、批判されるのも当然だ。


 とはいえ、授業というのは意志形成の場ではないので、同列で語ることはできない。サンデル教授だって、話す内容や結論まで、その場の白熱ぶりで決めてるわけじゃないだろう。
 割りきって考えると、スライドを使わない方が「どうかしてる」なのかもしれない。
 スライドを作ることのメリットは大きい。
 まず、板書の手間を省けるということ。ぼくがやってるような補助的な使い方でも、時間短縮への効果は抜群だ。「書き写せ」型板書をする人なら、むしろ時間が余って困るぐらいだろう。
 次に、注目させやすいということ。強調するために太い文字で大きく書くとかはホワイトボードだってできるけど、演出効果という点ではスライドにはかなわない。点滅させるとか、そういう演出も入れやすい。
 また、資料の類を引用しやすいということ。ゲーム画面に言及するとき、今はホワイトボードに描いてる。でもこれは本来のゲーム画面情報を双方の脳内で共有してないことには、たぶん意味がない妄想ニホン料理みたいな面白さはあるかもしれないけどね)。スライドがあれば、オリジナル画像を貼り付け放題だ。
 そして、書いた本人が忘れないで済む。実はこれこそが導入の目的だ。情報は揮発する。困ったことに、ぼく自身の頭のなかからも揮発してしまうのだ。なぜか最近の日本は祝日ばかりで、平日が不規則に削られていってしまう。複数の教室を回っていると、同じ科目なのに実施週に大きなズレが出てきてしまったりするのだ。2週も前の授業内容を記憶だけで再現するのは、若くたって厳しいと思うよ。
 では、デメリットは何か。気にしているライブうんぬんの部分を除けば、「作るのが手間」ってことぐらいだ。でも、今だって何も作らずに臨んでるわけじゃない。書いたとおり「ほどほどの予定調和」なわけで、実際には原稿として使う紙のノートを書いているのだ。ようはこれをPCで作って見せればいいだけの話、とも言える。
 ただ、割り切るべきところを割りきらないのが「こだわり」ってやつだ。レコードがCDになり、フィルムがイメージセンサーになり、本が電子になる。それらは大きなメリットをもたらしたけど、やはり何かを喪った。同じような喪失があるのではと、思わないわけにも行かないのだ。


 スライド作成には、PowerPointを使っている。
 今さら言うのもなんだが、ぼくは「筋金入りのMacユーザー」と指さされても仕方ない人間で、さらにマイクロソフトOfficeについてはかなりのアンチだったりする。その上でいうのだけど、PowerPointは、Keynoteよりもいい。決定的にいい。PowerPointはKeynoteの代用になるが、その逆はできない。PowerPointの重要な機能を、Keynoteが持っていないからだ。
 それは、入力モード。
 PowerPointは、アウトラインモードでの入力ができる。Wordにも装備されている、あのアウトラインモードだ。標準ではスライドのプレビューになっている左側ペイン、これをアウトラインモードに切り替えることができる。そうなると、階層化された見出しという形で、どんどんテキストだけを書き連ねていくことができるのだ(なお本文階層はないようで、完全に互換というわけではない)。
 ぼくのような物書きに近い人間にとって、これは夢のようにやりやすい。文章を書く時と同じペースで、スライドの全体を書いていけるからだ。そして、テキストの全体が書けてから、画像やキャッチの追加を行う。最後にテーマ(ビジュアル的な意味でのテンプレート)を選び、画面切り替えやアニメーションの設定を行って、完成だ。
 もちろん出来上がったデザインはヘボい。がんばればかっこ良くも作れるんだろうけど、使いやすいようにふつうに使うと、ヘボいスライドになってしまう。そしてKeynoteはこの辺を強みとして、自己の優位性を主張する。でも、これこそが「寄って立つ哲学が違う」を雄弁に物語っているのだ。「データとは何か」「ソフトウェアを使うとはどういうことか」について、Keynoteには大きな欠損がある。


 本来データというのは汎用性が命だ。一度作ったデータは、可能な限りそのまま使い回すべきで、モードによっていちいち作り変えるというのは、かなりナンセンスだ。手間が掛かるし、エラーの原因にもなる。むしろモード別の対応をさせた後もリンクを残しておいて、常に最新情報に更新し続けるようにしておくほうがベターなくらい。そして、これができることが、コンピュータ導入の理由となる。コンピュータは、手間と金のかかる装置だ。運用コストとか、あるいはトラブルへの対応によって奪われるコスト、さらにセキュリティ上のリスクまで考えると、とんでもない水準になってくる。なのにわざわざ導入するのは、それでしかできないことがあり、コストと引き換えにするだけの価値を持っているからにほかならない。
 強調しておきましょう。いかにデータを使い回すか。これを忘れないことが、コンピュータ運用のキモなのです。
 だけどKeynoteは、そういう思想に根ざしたソフトじゃない。スライドというものを、単に見せるだけのものとしか考えていないのだ。PowerPointのスライドは(まだまだ不完全ではあるけれど)データとしての柔軟性を持っている。ツリー構造を持ったテキストファイルとして他のアプリに持ち込むことができるし、その逆も可能だ。Keynoteにできるのは、受け入れるだけ。Keynote上で作ったスライドを、他のアプリで活用するという発想は、いっさい持っていないのだ。しょせんは「清書の道具」にすぎなかった、90年代のポータブルワープロといい勝負といえるだろう。


 ただ、さんざん持ち上げといて言うのもなんだけど、実は五十歩百歩だったりもする。作り方の部分はともかく、肝心のスライドそのものについては、PowerPointもあまりコンピュータらしくないからだ。
 問題視したいのは、各ページ間の関係。これが、シーケンシャルだということだ。アクション(マウスクリックかエンターキー入力)に対してページを送る、基本的にそれだけでしかない。ツリーやマトリックスなどのデータ構造を、ページ間に設けることができない。
 なぜ、こうなってしまったのか。まあ、アプリケーションのデザイナーが、それで満足してしまったからだろう。それは「メタファーの罠」にはまったのだと、ぼくは思う。
 現在あるようなGUIコンピュータの歴史は「メタファー(比喩)」から始まっている。データ集合概念としての「ファイル」を、文書のメタファーを取り入れ「書類」にし、また象徴する絵=アイコンへの置き換えも行う。あくまでも記号的処理の範囲内だったのだけど、ともすれば概念操作に流れがちだったコンピュータオペレーションを「机の上(=デスクトップ)」とのメタファーを通じて、直感的に解るようにしていったのだ。やがて画面表示能力が向上することで、単なるメタファーを越え、代用品となる可能性がもたらされた。そして、これが不幸をもたらしたといえる。「代用品で十分」と思ってしまったのだ。
 うんと昔、学会の発表会場にはスライド映写機が設置されていた。マウントに収まったリバーサルフィルムをカートリッジに入れておくと、後はボタンを押すごとに1枚ずつ送り出して、画面に映し出すって仕掛けだ。あるいはOHPもある。アクリル板にサインペンで書いたシートが、スクリーンに投影されるようになっている。PowerPointは、それらをコンピュータで置き換える装置として登場した。その結果、シーケンシャルなデータ構造だけをサポートする道具になってしまった。「スライドは、粛々と送るもの」で十分だからだ。
 Macというパソコンは、GUIの王国の中では、いちばん正統な血筋を引く一族だといえるだろう。それだけに、メタファーの罠にもはまりやすい。確かに、DTPやDTMなど、最終出力の部分を担当することで存在意義を高めてきたわけで、スライドについてもそう考えてしまったのは仕方ないのかもしれないが。


 そんなわけで授業用のスライド、本音を言えば、一番使いたい道具はDirectorだ。  90年代、それまで勤めていたゲーム会社を去り、フリーランスとして旗揚げしつつ、同時にゲームデザインを教えるスクール講師としてウィークデイの日中をバンタンの校舎で過ごすという日々が始まった。で、学校というのが宝の山であることを、仕事を始めてから知ったのだ。そこには、会社ではおよそ買って貰えそうにない高価なプロ用ソフトがずらりとそろっていた。そして、長年憧れ続けていたDirectorも、そこにあった。夢中になって使い方を開発、ドラクエ型RPGとか、Directorの対象とは思えないようなゲームをせっせと作ったりしていった。
 さらに遡れば、ハイパーカード。あれであってもいいだろう。Macにハイパーカードが付いていた時代、誰もプレゼンにコンピュータ使おうなんて思っていなかった(それ以前に、プレゼンテーションという行為が、一般的ではなかった)。でも、今思えば、格好のプレゼンツールだった。カラーが(どころかグレースケールすら)使えないとか、いろいろと障害はあったけどね。
 ……なんて言っても、ハイパーカードは帰ってこない。今はもうAppleも配布してないし、そもそもインテルMacでは動かない。Directorも「CCに入ってないAdobeソフト」なんていう、かなり微妙な存在になってしまった(今調べたら、バージョンが『12』になってる。でも最新が2013年だけどね)。あるいはFlashってことになるんだろうか。実際、Directorが遠くなったときから乗り換えを意識はしたんだけど、どうにも勝手が違っていて、結局マスターする前にアプリの寿命が枯れてきてしまった。
 ともあれ、「ソフト作り」側面におけるぼくの“母国”は、Director。ゆえに亡国の民ということで、かなり切ない思いをしているのだ。
 ところでGoogleで「ハイパーカード」を検索したら、Amazonが「ハイパーカードならアマゾン」なんてしゃしゃり出てきた。おいおい、こういうこと言うんなら、ホントに作ってみてくれよ。あんたらなら、できるからさ。


 論点がいろいろ拡がってしまった。このへんで収斂させておこう。
 GUI時代のコンピュータは、情報科学の視点から見た場合、必ずしも進歩していない。むしろ、先祖返りと言っていい側面がある。今、プレゼンツールとして、PowerPointがあり、そのアンチテーゼとしてKeynoteがある。だが、どちらも(そして後者は色濃く)先祖返りをしてしまったツールだ。
 そして、このことは「授業」そのものの先祖返りをもたらしてしまうかもしれない。  昔の大学では、授業というのは教授が一方的に講じるものだった。そう、対話ではない。彼は一方的に声を放つのだ。相手が聴いてようがいまいがお構い無しで。
 ぼくは80年代に大学生だったけど、最初に入った大学の最初の授業で、まさにこの点で面食らった。「文学」というのを担当していたのが、おじいちゃん講師。この人は、。ひたすら壁の少し上の方を見つめ(虚空なのかもしれないけど)、たぶん何十年間も続けてきたであろう講義を、しわがれた声で高らかに詠み上げるだけだった。オーディエンスたる学生のことなんて、全く気にしない。聞いていようがいまいが、そして増えようが減ろうが。そもそも目すら合わせようとしなかったのだ。
 その後、ぼくは他の大学(法学部)に移った。予備校講師のように情熱的な授業を展開する先生もいて、やっぱり全国区の大学は違うと、えらく感動したものだ。でもその反対側だって、決して空席ではなかったのだ。階段教室の教卓に陣取り、そこから一歩も離れることなく淡々と授業ノートを朗読し続ける教授/助教授というのがいた。
 こういうのは、旧帝大以来の伝統らしい。大学教授とくれば「教師」であることを、社会的には期待するだろう。でも、当人たちの意識、必ずしもそうではない。「大学とは研究をする場所で、学生への講義など余計な手間」っていうのが、昔の大学教授の意識だった。だから、授業ノートの朗読だけをしていても、何ら恥じてはいなかったのだ。


 で、PowerPointのスライドを使った授業というのは、こういうものの再現になってしまう恐れがあるのではないかと思うのだ。
 ぼく自身は、そうならないように注意している。スライドは、いわば「授業の相方」だ。喋りの流れの中にツッコミをいれるような感じで(いや、喋りのほうがツッコミだったりもするけど)、画像を切り替えている。そして同時に、シナリオでもある。するつもりの授業をスライドにまとめていく過程は、いわば絵コンテ作り。全ては授業をライブとして盛り上げるために存在してる。
 でも、読み上げ型授業をするつもりの人にとっても、スライド使用は夢のようにやりやすいだろう。
 最近の大学では、スライドの利用が教授たちの義務になっていたりする場合もあるらしい。知り合いの先生からそういう愚痴をきいたことはないけど、導入している大学の紹介をテレビで観たことがある。自発的に取り組んでいるのならともかく、雇い主である大学当局に命令され、嫌々取り組んでいるような人に、ライブとしての盛り上げは期待できそうにない。何しろ学生の相手すら「余計な仕事」と公言して憚らなかったりするのだから。
 そもそも授業というのは、意志形成の場ではない。日本の伝統として「知識伝授」が原則。そして、基本的に「これを教える」がシラバスとして存在し、個々の授業というのはそのヒエラルキーに服している。そういうものを展開するための口実には、あらかじめ事欠かないようになってしまっている。

 何度かに分けて書いた結果、最初の記事からずいぶん経ってしまった。この間ももちろん授業はあり、PowerPointのスライドを使った授業を続けている(ま、さすがに1・2回で終わったんじゃ、切ないが)。
 結局のところ、ぼく的に続けるかどうかは学生の評判次第。でも、より本来的には、授業効果として測定するべきなんだけどね。