ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

深まりゆくiの生活(終)

 ある意味、ぼく自身が、AppleAdobeにとっては、切り捨てるべき「レガシー」なのだろう。メーカーが想定しているユーザーは、言われた範囲内でデフォルトを変えずにアプリを使うような連中だ。従順かつ模範的で、過去のやり方なんて知らない。
 ぼくは、自分のやり方じゃないと気がすまない。独自のフォルダを作りたいし、独自の命名ルールを使いたい。そして、インターフェイスだってそうだ。ずっと使ってきた自分流のやり方にカスタマイズしたいのだ。でも、メーカーの側は、それを嫌う。そして、新しい概念をこしらえては押し付けてくる。そういうことに対応できない人間なんてのは、ieee1394Firewireと変わりゃしないのかもしれない。
 ただ、一つの真実がある。
 実はコンピューティングの要点はデータであって、アプリなんてのはデータ様にかしずく召使に過ぎない。永遠の命を保たせられるべきは、ユーザーによって作られたデータの方にある。
 iPadの―というか、iOSの―仕組みは、アプリケーションを中心にしている。保存されるデータは基本的にアプリケーションごとに分断されていて、乗り越えて使うことが想定されていない。DOS時代のPCのようなものなので、むしろ先祖返りとすら言える。
 かつてAppleは「OpenDoc」を掲げ、商品としてのソフトウェアを「アプリケーションの中で提供される機能」単位まで分解しようとしたことがある。時代を先駆けすぎていて無残に失敗したが、現在のiOSアプリの売られ方なら、むしろやりやすい。そんな時代が来れば、自動的に「データ中心」とならざるをえないだろう。
 その時、ようやく「Pro」は「プロ」になれるわけだ。