ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

草野翠に加瀬薫(4)

 「母校」という言葉の定義、ぼくにとって、その基準は、校歌を歌いたくなるかどうかってとこだろうか。単にそこを卒業すれば母校ってわけじゃない。
 実際こういう記事を書いていると、卒業した高校のことを、思い出したくもないのに思い出す。ここはゴミ溜めのようなところだった。無抵抗な相手に一方的に暴力をふるって恥とも思わないような人格破綻者どもが「教師」の看板掲げてウロウロしていた。
 名前を思い出すのも気分悪くなるような、数学教師がいた。授業を受けたのは1年の時だが、いちばん記憶に残る出来事は2年のときにあった。他の教師が授業をしている教室に突然乱入し、生徒の一人を引きずり出して、クラス全員が見てる廊下で、殴る蹴るの暴行を加えたのだ。理由は「目が合ったら、にやにや笑った」。
 もちろん暴力を実際に行使する教師は、多数派ではない。でも、例外的少数派とはとてもいえないのだ。先に挙げたようなことを日常的にやっていた常習者は5名程度か。また広義では暴力に入る、ビンタとか竹刀で叩くとかも含めれば、その倍くらいは追加される。そして、多数派もそれを否定していなかった。むしろ利用していたといえる。
 「俺たち教師ってのは、
  この狂犬と同じような危険極まりない生き物なんだ。
  もっと怯えろ! 俺たちの話を恐れ入って聞け!」
 これが連中の発していた無言のメッセージだろう。少なくとも、職を賭して人格破綻者たちに抵抗したという教師は、ただの一人もいなかった。
 ここが偉そうに「うちはあんたの母校やで!」なんて言おうものなら、ぼくの望みは孤児になることでしかないだろう。教師は少なくとも反面教師としては役にたつというのがぼくの持論。この学校はほとんどの教師が反面教師という、とても貴重な高校だったわけだ。