ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ほんとは256倍くらいかな(7)

 予定外の記事を書いてしまったけど、1回で元へ戻そう。ただ、回り道を始めてしまった直後なので、“元の”といってもストレートに戻るわけじゃない。批評、の続きだ。

 ボロクソに貶すというのは、それ自体注目すべき現象だとも思う。

 掲示板レベルの媒体では、酷評以外の批評がほとんど見受けられない。まるで罵倒することがユーザーの権利だとでも思っているかのようだ。でも、掲示板だけの現象というわけでもないのだ。映画評論なんてのはたいていはひどいものだし、文芸評論もそうだ。ぼくたちが十分に楽しく面白いと思った作品を、批評家たちはボロクソに貶す。

 なぜ人は酷評するのか。

 まず、それは「自立する喜び」から来ているといえるだろう。

 見る目ができていないとすべてがよく見えてしまう。お金と時間を費やした以上「いいものだった」と思い込みたいって心理も働く。そして人は通常権威に呑まれてしまう。有名監督のネームバリューとかマスコミの絶賛とかだけじゃない。「経験豊富なプロデューサーが何十億ものお金をつぎ込んだ」っていう事実が、ハロー効果の元になる。そもそも、人間の感動なんてのは7割方は予測可能なわけで、実際劇場公開される映画なら「感動の文法」ぐらいはわきまえてまとめてある。そんな圧迫を乗り越えて、自らを意図的に鍛えていかないと、見る目というのは養われない。

 そして、批判にはリスクがある。嫌われるリスクと嗤われるリスクだ。だから大人は「王様は裸だ」と叫ぶことができないわけで。そのできないことをするためには、闘う気持ちが必要だ。中途半端な妥協ではいけない。それで、力強く「くだらん!」と言う。

 でも、あたりまえだけど、そういうスタイルだけなら、誰にでも真似ができる。特にリスクを持たないのならね。