ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

雑誌が消える!(5)

 実際のところ、本屋には膨大って言ってもいい種類の雑誌が並んでるわけで、その消滅を危ぶんでいるぼくの主張は、虚しく聞こえるかもしれない。

 これには、ちょっと補足が必要だ。

 事実、専門誌というのは、決して消えそうなわけじゃない。だけど一方で、その細分化が進んでいるとも思うのだ。かつての日本人は、仮想コミュニティに参加するために、雑誌を購読した。特定の読みたい何かがあるわけじゃない。ただ、その分野における“常識”を共有したいのだ。そういう核になる雑誌というのが、今は消えている。

 昔の専門誌は、専門誌といいながらも「ジャンル内総合誌」だったといえる。でも今はどうか。特定の目的において「役に立つ」ことが求められているのが現実だ。記録媒体の技術や思想なんてことじゃなく、直接的に「レンタルのDVDをコピーする方法」を求めているわけだ。読者にとって、もはやそうした雑誌は「機能」に過ぎない。同じ機能をインターネットが果たせればそれでいいわけだし、期待する機能がない号は買わないから「定期購読」という発想自体が乏しくなる。結果、「その分野に属する人なら共通して知っている」知識の形成もうまく図られない。

 こんな専門誌の問題をそれ以上に体現しているのが総合誌だ。かつての日本では、身分に応じた総合誌というものがあった。大人なら「文藝春秋」や「中央公論」だし、大学生には「朝日ジャーナル」。そしてリアルマン&それに憧れている青少年の手には「月刊PLAYBOY」があった。さらに言えば、小学校から高校まで年刻みで学年誌もあった。総合誌は、中心になる記事を持ちながらも、経済・社会・文化・生活についてもあれこれと紹介、それを共通の知識として議論を行われたりするから、波及効果は対数的なのだ。

 総合誌が消えた今、知らないこと・興味が無いことへの目を向けさせてくれる用途を果たす雑誌はない。結果、個人はばらばらに分断され、市民は大きなリアルパワーを持つこともできない。