ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

未満な男一人旅


 旅情を求めて乗った近鉄特急だけど、思ったよりも混んでいた。だいたい新幹線と同じくらいだろうか。男一人旅っていうよりは、ただの出張のように思えてしまう。
 学園祭の翌日、秋の平日が一日ぽんっと休日になった。実際には年初のカレンダーでもきまっていたことだけど、当日が来るまで気にしていなかったせいで、まるで突然のプレゼントが転がり込んできたみたいだ。街に出るだけじゃもったいないし、家にいたんじゃ輪をかけて残念。そこで、アクア・イグニスにいくことにしたのだ。最近ちょっと疲れることが多かったし。
 アクア・イグニス。ここは、平たく言えば温泉だ。
 元々あった温泉を、力のあるデベロッパーが才能のあるプロデューサーといっしょに、ロハスな保養施設に仕上げた。大きな風呂に広い休憩所、そして“大地の恵み”系のお食事処やベーカリーが、農場まで含んだ広い敷地の中にまとめられている。日帰り客が大半とはいえ、ちゃんと宿泊棟もある。ついでに言うと露天型のチャペルもあって、たぶん結婚式だってできる。おいしくておしゃれな温浴施設なのだ。さらに言えば、ここは鈴鹿山脈の主峰、御在所岳の麓にある。偏屈な作家に難癖を付けられ百名山には入れてもらえなかったけど、紅葉の美しさで知られる、地域の代表的な山だ。
 とはいえ、ひとつ問題がある。快適なのは、別にぼくだけのものじゃないってことだ。
 名古屋じゅうの人……いや、地元四日市の人にとってはなおさらだね、とにかく誰にとっても快適な場所で、そのせいでふだんはものすごく混雑しているのだ。風呂は広いんだけど、それを埋め尽くすほどに客が入っている。洗い場も湯船も大混雑で、少なからぬ人が浸からずに縁に立っている。裸の男が水辺ににょきにょきと生えている状態で、ここに来ると「酒池肉林」って言葉を、ぼくはいつも思い出す。
 でも、今日は平日だ。ゆったりとくつろいで過ごせるに違いない。となれば、往復だって、ゆったりと非日常をくつろぎたいもの。車で1時間くらいの場所だから、ふつうは車で行く。そこをあえて特急に乗ったわけだ。
 まあ、出張みたいって言っても、それはそれで非日常なのだから、よしとしよう。



 四日市から、湯の山線に乗る。こっちは単線のローカル鉄道だ。
 ただ、基本的に市民の足だね。通学とか買い物とか、ふつうの生活のために乗っている人が、乗客の大半だ。他の支線をみんな手放してしまった近鉄が、これだけは確保しているんだから、客足だって少ないはずがない。まずまずの乗客を乗せた電車は、田舎になりきれない郊外の風景を、がたんごとん……最近の幹線鉄道では聞けない音と震動だ……と、走っていく。
 やがて着いた途中駅で、長い停車になった。単線ならではの、待ち合わせだ。やっぱりここはローカル線なんだなと実感する。
 再度走り出したとき、車内を流れたアナウンスに、耳が金縛り。
  「つぎは、さくら。さくら」
 日本人にとってお馴染みの「桜」なんだけど、イントネーションが「く」にあるのだ。しかも、最初の「さ」よりも最後の「ら」の方が、低く発音されている。その違和感ときたら、エメリッヒ版で日本人(ってことになってる)船員の口から聞かされた「ゴ・ジ・ラ」の言葉と大差ない。
 そう、ここはもう関西だったのだ。東国と西国を分ける線は、揖斐・長良川となって伊勢湾に注いでる。四日市なんて、日本地図を眺めてる分には名古屋の郊外なんだけど、言葉的にはもう“大阪の隣”だ。だてに「近畿日本鉄道」が走ってるわけじゃない。



 若者から中年までの期間を東京で過ごしたぼくは、名古屋の行楽地を、そっちとの類推で捉える癖がある。
 東京にとっての伊豆、これは名古屋では伊勢志摩になるだろう。点在するリアス海岸に、うまい魚。南紀は西伊豆みたいなもので、志摩半島周りで行くと、ちょうど石廊崎経由で松崎まで行ったような達成感を感じる。富士山にあたるのが、御岳だ。市内のどこからでも見える独立峰。距離的には車で“ふたっ走り”ってとこで、麓には温泉とか高原とかがある。まさかこっちが先に火を噴くとは思ってなかったけど。
 そこへ行くと、御在所岳というのは、高尾山みたいなポジションの山だと思う。都心から私鉄で近くまで乗り付けられ、その先にはロープウェイが架かっているのだ。実際に歩いて登ってみると「ハイキング」と呼ぶにはあまりにタフなのだけど、まあ歩いて登れる山ではある。
 車窓から見える風景が、だんだんと開けてくる。建物の密度が減っているのだ。家並にも、古いお百姓家みたいなのが増えている。
 そして山が見えてきた。思わずぼくの目は釘付けになった。晩秋の鈴鹿山脈……なんだけど、色的には「濃緑」。ぜんぜん紅くない。
 そう、ぼくは勘違いをしていた。「紅葉の季節」と連呼されているテレビ画面に映されていたのは、立山とか尾瀬とかの話だった。御在所岳なんてのは、海から直接生えてるような山で、標高的にはうんと低い。
 やがて電車は、終点についた。「湯の山温泉」。ここのはあくまでも駅名に過ぎなくて、その名を持つ温泉はさらにバスに乗った先にある。でもアクア・イグニスは、逆方向だ。線路沿いに少し戻ったところにある。ぼくはリュックを担いだ。
 角瓶と文庫本……なんてキャッチがあった。旅情を求めた男の旅だったら、持ち物なんてそのぐらいがいい。今回、ぼくの背中のリュックには、パソコンとデジイチ(デジタル一眼)が入っている。あと、タオルや着替え、それに帰りに湯冷めしないための上着も。内容的にはシンプルなくせに、物理的には重い。



 小さな旅は、ほんとに小さく終わった。
 予想に反して、アクア・イグニスは平日も大繁盛だった。
 露天風呂も、賑わっていた。いつもの“肉林”は避けられたけど、満員感は十分だ。7人が並んで横たわることができる寝湯には7人がフルに詰まっていたし、縁台みたいなところにもおじさんが3人横たわっていた。横たわる裸男がゴロゴロしてるってのは、日本においても「普通」とは言い切れない光景だ。西洋人には、ホモのヌーディストキャンプにしか見えないだろう。
 そして、休憩スペースも、くつろげるような状態じゃなかった。横になれる場所は一カ所しか空いてない。ただ、問題なのはそれじゃない。“お年寄り”と呼ばれるまで後一声ってあたりのおばさんたちがいっぱいいて、ことあるごとに騒ぐのだ。
 浴場棟のロビーには、売店が併設されている。おばさんたちは、とにかくやかましい。調度品とか土産物とか、何かを見つけるたびに大声を張り上げ、特に何も見つからなくても、ご近所の話とか別の場所での話とか、大声で喚き散らすのだ。当人たちにとっては嬌声なんだろうけど、どうしたって叫声だ。“かしましい”は「女」3つを並べるけど、この状況を表現したかったら、7つ位は並べないと(そして『波』も上に忘れずにね)。
 結局、休憩所にもほとんど留まることなく、帰路についた。持ってきたデジイチも、ほとんど出番なしだ。パソコンの方は、こうして残念紀行文を書くのに役立ったけどね。  帰りがけ、駅に向かって歩きながら、近くで気になる工事が始まっているのに気がついた。高速道路だ。今は東名阪経由になっている新名神を、ちゃんと予定ルートに繋げるための工事らしい。道路予定地とおぼしき空き地は、敷地のすぐ横を通っている。今は鈴鹿山脈が見えている風景も、そう遠くない未来にコンクリートの壁に置き換わってしまうのだろうか。
 そうなったら、今度こそゆったり入れるんだろうか。でも、ぼくにとっても快適でなくなってしまいそうだね。