ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

時計を語ろう


 父は腕時計を集めるのが好きだったようだ。遺品として、たくさんの時計が残されていた。ただ残念なことに、どの点においても中途半端だった。どれも安物で、デザイン的にもごくふつう。そして「たくさん」といっても、一般人視点におけるそれに過ぎない。部屋一個まるごとコレクションとかいうわけではないのだ。譲り受けたいという気持ちにもならなければ、当人の個性なり価値観なりに圧倒されるということもない、どうにも残念な蒐集癖だった。

 ぼくは元々時計にそんなに魅力を感じていなかったほうだ。だいたい時計なんてのは時間を観るための装置にすぎない。告げる時が正確なら、軽くて腕に巻ければそれでいいのだ。ちょうど学生だった頃、バブルを目前にした日本の時計は、価格的にボトムを極めていた。“忘れたら駅で買えばいいじゃん”のノリで、名画座でたまたま観た『時計じかけのオレンジ』に、主人公がカツアゲした時計を引き出しに溜め込んでるシーンがあって、思わず苦笑してしまった覚えがある。
 それがあるときスイッチが入った。たまたま手にしたスウォッチに、わけもなくはまってしまったのだ。
 もちろんスウォッチは高級品ではないんだが、さすがにトレーディングカード集めるほどのペースで買い続けていく訳にはいかない。せいぜい月一個ぐらい。だからたいした数になったわけではない。

 そのときぼくは何に惹かれたのか。機能であるはずがない。スウォッチの示す時は、時分秒まで。今日が何日であるとか、そういうことはわからない。そして数を求めていたわけでもない。スウォッチならなんでも買ったということはなかった。お金があって、買いに行ったとしても、心を掴む何かを持ったもの以外は買ったことがない。心を掴むというのは、単に綺麗とか可愛いとかではなかった。一言で言うなら、エスプリだ。そもそもスウォッチであるというだけですでにエスプリが効いているのだけど、それをキャンバスにして描かれたアートが、コンセプトアートとしての魅力を持っていないと、買うということまでには至らなかった。
 このあたり、実は高級時計に憧れる人たちと(結果としての対象は対照的なんだけど)共通していると思う。彼らが焦がれているのは、決してブランドそのものではなく、「高価」へのあこがれでもない。時計というメカに対するリスペクト、これがスタート地点にある。呆れるほどに細かい部品を呆れるほどに精密に組み上げることによってようやく完成するのが、機械式腕時計というものだ。クォーツがある時代、自動巻き時計につぎ込まれている努力は、「時を知るための装置」と時計を捉える視点からすると、これほどの無駄な努力もない。だが、この無駄あるからこそ、あこがれの対象になれるのだ。複雑であれば複雑であるほど、その度合は強くなる。ブランドへの人気だって、そういうのを作っている工房という事実があるから、ようやく成立するのだ。だから、ファッションブランドを冠した時計というのはどうもイマイチ感が強いし、宝石屋が作っている時計というのも鼻で笑ってやりたくなる。

 その頃集めたスウォッチはもうない。もしぼくがもっと偏執的に蒐集を続けていたのなら、今頃はかなり立派なものになっていたんだろうけど、残念ながら「やや粘着」程度なので、ぷいっと飽きてしまった。
 ともあれ、父の遺品を見たときに感じた残念さ体験から、ぼくにとって「高級ブランド時計を2つ買う」が、人生の宿題のひとつになっている。子どもたちに分けられるように、1つじゃなくて2つ。
 もっともまだ1つ目も手にしていなんだけど。



 腕時計が持ち物として魅力的なのは、実用性を持ちながらも、それを貫くと「ないのがいちばん」になってしまうという、その二律背反性にあるのではないだろうか。
 実用性とは言うまでもない。時間を見られるということである。だが、時間を知ることがどれほど必要なのか。職場だろうが学校だろうが首を回せば時計ぐらいある。電車は時間通りに来るから時計で確認する必要などないし、バスはどうせ確認したって来やしない。というか、携帯を見ればそれで済む。
 結局のところ、アクセサリと考えるのが一番だ。ただ、このアクセサリーという位置づけがあるからこそ、悩むのである。実用品なら、それは仕様だけで決められる。だがアクセサリーは違う。人生観とか世界観とか、自分自身の内面をそこに表現せざるを得なくなる。

 今、ぼくがいちばんリスペクトしているブランドはカンパノラだ。別にすぐ買うわけではないから型番とか言ってもしょうがないんだけど、自分的にいちばんストライクなのが、これ(リンク切れだったらごめんなさい)。
 なぜか。まず、時計へのウォンツは、何よりもそのメカニズムへのリスペクトであるということ。単に高価いだけの時計ならいくらでも簡単に作れる。宝石散りばめればそれでいいんだから。そういうのは、そういう人生観を体現している商品であり、そういう世界観を持つ人がつければいいと思う。同じ理由で、単に高価なファッションブランドを冠しているだけの時計も論外だ。だから、時計としてすごいものを作っているところの、まあそれなりにすごい時計でないと、ほしいとは思えないのだ。
 では形とかどうでもいいと思ってるのかというと、そうでもない。ぼくはこれでもクリエイターの端くれなので、ユニークな造形もそれはそれで譲れない。そしてこれは顔みたいなものだから、特徴づけられるものでないと困る。
 カンパノラの気に入っている点は、当然ながら、まずデザインコンセプト。これは単にユニークならいいわけではなく、自分自身の「ぼくってこういうのを素敵って思う人なんですよ」の主張に合致したデザインでないといけない。そういう意味で、世界中のどの時計よりもいいと思う。加えて、メカニズム。尊敬するに値する十分に複雑なメカニズムを備えている。加えて、自動巻きじゃないところがいい。高級時計とくれば当たり前のように自動巻きなのに、電池またはソーラーで動く。日本製であることを誇らしげに誇示している感じだ。
 一般的な高級時計の中で選ぶと、フランク・ミュラーはぼく的にいい線行っていると思う。ただ、値段が高すぎて、所有することが非現実的だ。特に、リスペクトの対象たるメカニズムの凄い機種なんて、夢想的といっていい価格になってくる。加えて知名度が上がった最近ではアイコン化が進んでしまい、こんなのもネタとして通用するようになってしまっている。単に高価なファッションブランドとあまり違わないかも知れない。

 実はカンパノラの中で、コンセプト的な意味で、より心を惹かれるものがある。コスモサインだ。
 文字盤の部分に星座盤が取り付けられているんだけど、これは実に呆れた精度を持っている。星座だから、1年で一周するのだ。腕時計が人間の創りだした機械の中でユニークな点は、実は遅さにある。機械の大半は、スピードを売り物にする。だが時計だけは違う。あの小さな短針が、一日かけてたったの2周しかしないという緩慢さだ。見ているものに、動いていることすら実感させないのに、それは動いている。一日2周でもすごいのに、1年で1周なのだ。ほとんど気が遠くなるような動きで、こういうバカさこそが、ぼくたちのような人間がいちばんリスペクトするものだといえる。
 ただ、ぼくの年齢では、大きな難点が。細かすぎて、見られないのだ。まあそれこそが、コンセプトを完成させる事実かもしれないんだけど。



 まあ、実際のところ20万円台の時計というのは手が出しにくい。買えないわけじゃないんだけど、このぐらいの自由になるお金があったら、他に使いたい用途があれこれとあるからだ。今使っているのは、ワイアードインディペンデントとの間で迷った末に買った。で、今度買うとしても、たぶんそのどちらかだと思う。実際、カンパノラを指向するマインドは、これでも相当レベルまで満足できるんだし(ぼくは別に高級時計を通じて『オレって金持ってんだぜ!』を主張したいわけではない。たとえフランク・ミュラーを持ったとしてもね)。だから、たぶん買わないままになるんだろう。とはいえ、スウォッチの蒐集を再開することも、たぶんないと思う。

 30代のぼくがスウォッチに凝りだしたのは、今思えば転職がきっかけだった。会社を辞め、フリーのクリエイターとして歩き出した時と一致している。
 それまでいたのは、いわゆるゲーム会社。ただ、「クリエイターといえども、社会人としてふさわしい格好で仕事をすべし」という方針から、ドレスコードの面では一般企業と同じで、ネクタイ着用が義務付けられていた。といっても、まあそこは都心を遠く離れた土地ということもあり、そう気張ってるわけじゃない。バブルの余波を残すようなソフトスーツ、あるいはその延長線にあるブレザー系の上着を、漫然と着ていた感じだ。
 それが、独立したとたん、パラダイムシフトとなった。講師としてのクライアントから、「原則としてノーネクタイ」をリクエストされてしまったのだ。全身のあちこちをあれこれと模索していったのだけど、最後に辿り着いたのが時計だった。ゲーム屋、それも若い志望者にとって「かくあるべし」というお手本にならなければいけない身としては、「色とりどりのスウォッチと、それに見合った服を着ている大人」である必要があった。ある意味、ネクタイの代わりがスウォッチだったといっていい。

 ところで、一般的な大人の男用の高級時計、必ずしも誰にでもわかるようなユニークな造形を持っているわけじゃない。ロレックスなんて「えーっ、これが百万円!?」なんて叫び声が聞こえそうなモデルばかり(しかも、これは高級腕時計としては入門クラスで、ふつうはその何倍かはする)。
 ただ、思うにこれも重要な機能なのだろう。「これが解る相手なら、対等に話し合える」みたいな“踏み絵機能”ということだ。そういうのがわからないままというのはなんだかそういう連中に勝ち誇られてるみたいで気持ち悪いんだけど、きりがないからやめておこう。
 少なくともぼくのクライアントは、Gショックぐらいまでなんだし。