ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

万年筆難民となって


 大学に進学するときに親類から贈られたモンブランが、今でも忘れられない。
 カートリッジ式ではなく吸入式。少し太めのボディだが、とにかく軽かった。そして、ペンの滑りがいい。これを使って文章を書くと、ただ書いているだけでウキウキしてきたものだ。大学では、資格試験の勉強で論文を書く機会が多くて、このモンブランがフルに活躍した。
 だが、もうこれと出会うことはできない。
 直接的には、なくしたからだ。愛用品というのは、そういうリスクを伴う。ただ、失ってわかったのが、そのありがたさだ。ぼくにとっての万年筆のスタンダードが吸入式モンブランというところで確立されてしまい、その後他の万年筆を持っても、なんだかしっくりこないのだ。同じモンブランのカートリッジ式すらだめだった。
 だけど、今はそれ以上の理由がある。モンブランが、なくなってしまったからだ。
 もちろんその名を関した商品は存在している。だけど、あれは2以降の『ジュラシック・パーク』みたいなもので、商業的理由からその名前を着けて売っているだけのアクセサリーにすぎない。モンブランを買い取った企業グループは、その名をファッションブランドの一種として扱うことにしか興味がなく、安くて数万円という商品ラインナップになってしまった。ときどき「世界の作家シリーズ」とか称して、「フランツ・カフカモデル/12万円」なんて商品を売ってる(昔の作家って、通常貧乏なものなんだが?)、今ではその名を関した高級腕時計(笑)すら、臆面もなく売られているくらいだ。
 そんなわけで、ぼくの万年筆ユーザーとしての祖国は、失われてしまった。流浪の民よろしくいろいろなブランドをつまみ食いしているが、なかなか第二の祖国に巡りあえずにいる。



 万年筆という道具を求めているという時点で、この時代にあっては“拘りびと”であることが約束されているようなものかもしれない。使い捨てられる筆記具がこれだけたくさんある時代、なんでそんな前世紀の(いや、前々世紀かな)遺物を追いかけ続けるのか…まあこの価値観は、健全といえば健全だ。
 とはいえ、これは使ってみればわかると思う。何よりも、美しいのだ。書かれた文字が、である。
 万年筆で書いた文字は、線に強弱が出る。力の入るところやゆっくり動かす場所の線は太く、そうでない場所の線は細く。そして、端点。始まりのところの“イリ”と、終わりのところの“ヌキ”。まさに序破急といっていい。そしてインクの黒さ。鮮やかかつ切れのある、気持ちいいコントラストがもたらされる。
 この結果、単に万年筆で書かれたというだけで躍動感あるいは生命感がもたらされることになる。そして、ある程度字が下手でも、この生命感が劣った部分を補ってくれる。これは、他の筆記具では、決して得られないものだ。ボールペンで魅力的な字が書けるのは、よほど字のうまい人に限られる。そして、ボールペンの字は「うまい人」と「凄くうまい人」に、ふさわしいだけの差を与えてくれない。万年筆の文字は、下手でもある程度加点してくれ、そしてうまい人については上方向のうまさの度合いをきちんと反映してくれる。
 つまり、万年筆を使うと、魅力的な見た目を、自分の書いたものに与えられるのだ。こういう「見た目の印象」が気にならない人間は、他のあらゆる自己演出の手段も気にならないのだろう。そして、人生上のチャンスもいくつか失うことになる。まあ、そこまで言うと大げさなんだけど、少なくとも企画屋なら、こういうことが気にならないのではいけないと思う。現実の企画屋は、主にパソコンで仕事をする点は、とりあえずおいておこう。