ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

なぜ鳴くの?(2)

 カラスの話の流れからつい触れてしまったドーキンスについて、もう少し書きたくなった。

 ここで言っているのは、「利己的遺伝子」のことだ。

 進化論の基本になるのは、適者生存の原理。環境に適した者が生存し、その結果生存に有利な特性を子孫に残していくことができ、それを持った個体がどんどん増えて、結果として種自体が確立されるという考え方だ。伝統的進化学説の場合、この生存の単位として個体を考えていたのだけど、その結果、いろいろ説明困難な現象が残った。その代表が利他行動。例えば捕食者を見つけた個体が警戒音を放ってそれを群れ全体に教えたりする行為。これは、群れにとってはありがたいけど、本人にとってはいいことない。自分一人こっそり逃げたほうが生存確率が上がるわけで。なのになぜ多くの生物にそういう行動が残っているのかをうまく説明できなかった。とはいえ「種」という単位は使いづらい。生物にその自覚があるはずないんだから。結局「種全体に働く見えない力」とか、どんどん科学から遠ざかってしまう。

 ドーキンスの考えは、この破綻への回答としての、ダーウィニズムの補修だ。伝統的進化論における単位を見直し、個体ではなく遺伝子という単位で適者生存を考えるというものだ。警戒音を挙げさせる遺伝子があるとする。遺伝子である以上、群れ全体に共有されているだろう。そしてこれが働けば、個体にとっては生存に不利でも、その遺伝子を持つ群れ全体には有利に働くわけで、結果として(あくまでも結果であることが重要!)その遺伝子はその生物種の遺伝子プール上に残る確率が高くなる。これが積み重なっていくことで、生存に有利な特性の純化とかを説明できることになる。

 つまり、根拠の曖昧だった「種」なんてものに頼ることなく適者生存を理論付けられるということで、ダーウィン主義に大きな改良を加えるものだ。


 ドーキンスへの反論は、たいていの場合、ドーキンスの説ほどには説得力を持たない。進化を論じて道化になってしまっている感じだ。というのも、その多くがドーキンスの主張への反論であって、ドーキンス説に対する反論になってないからだ。

 例えばある論者は、こんなことを言った。

「遺伝子はごく小さな物質であって、意志なんて持っているはずはなく、利己的に振る舞うことなどありえないッ!」

 これにはドーキンス自身、答えている。

「あたりまえだ」

 説明のために使ったレトリックとか、そのレトリックが前提とする価値観とか、そういうものに対していきり立ってる人が多くて、そういうものをひとしきり非難した上で、ドーキンス説とは直接関係のない自説(本人にとっては代替学説)の展開っていうのが、反論書のお決まりのコースだ。ただ、やっぱり根本的な価値観の対立もある。たいていの科学者が、科学的言説の時点では無神論者だけど、ドーキンスの場合はフルタイムの無神論者で、それも科学的洞察の必然としてそれを説く確信的無神論者なのだから(ちなみに彼の書いた生物学以外のベストセラーがこちら)。

 ドーキンスって人の言説は元々妥協的なところは全くなくて、明らかに敵を増やしそうなタイプなんだけどね。まあ、日本人としては、むしろそうした言葉の持つ言霊をそのまま飲み込んでヘンな雑学本とか自己啓発本とか書いてしまうライターにこそ、その舌鋒を向けてほしいと思うんだけど。