ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

なぜ鳴くの?(3)

 ドーキンスついでに、もう少し書いてしまおう。

 無神論ということについて、ぼくたちは特段意識していない。

 結果的に言えば、日本人はたいていの場合、汎神論的無神論なんではないかと思う。正式にどこかに属している人だって、雲の上に白人のおじいさんがいて地上の全てを見守りつつ時には自分に祈る人間をえこひいきしてくれるとか、あるいは約56億7千万年後に超生命体が現れて宇宙を救ってくれるとか、そんなの本気で信じてはいないよね。それでも、神的なもの・聖的なものについてはリスペクトするし、人智を越えた何かというものへの、理屈抜きでの畏れあるいは希望というのも持ち合わせている。そして、信心深い人というのもそんな自分の延長で考える。平和な範囲で行われている宗教についても「その人が信じてるんなら無理にとりあげることもないよね」的に思っているし、日常生活の中に入り込んでいる宗教的儀式についても「まあ、無害だからいいんじゃないの?」と考えている。

 でも、そういうのを許してくれないのが、ドーキンス流の無神論だ。「中立であるということは敵に手を貸しているということ。断固、戦うべし!」なのだ。

 このあたり、一神教の恐ろしさを感じなくもない。―いやいや、こんな連中と論争してかなくちゃならないんですよ、グローバル化の時代ってやつはね。

 とはいえぼく自身は、ドーキンスの言う「ブライト」は、そんなに嫌いではない。56億7千万年後、弥勒様はたぶん来てくれない。でも、おそらく昔の人にとって単に「途方も無い未来」を示すために使われたのだと思うこの桁の大きな数字は、科学に親しんでいるぼくたちにとっては、もう現実的な数字だ。そういうことがわかるという点で、科学というのは素晴らしい。そして、弥勒は来ないけど、ぼくたちはいる。ぼくたちを構成している元素の多くは、形を変えながらも宇宙に残っている。56億7千万年前がそうであったように。現実にそうであるという点に、畏れのようなものを感じる。

 ただ、仮に西洋人に“レリジョン”を訊かれたら、今ならぼくは「神道」と答えるだろう(うまく英語で言える自身はないけど)。

 神道は、最高に洗練されたアニミズムではないかと思う。自然とか環境とかいったものを、時には愛し感謝し、また時には畏れるというのは、人として自然な感情だ。それを、原始的な自然崇拝・先祖崇拝のままで終わらせず、高度に文明化していったのが、日本の神道。明治期になって国家政策の一つとして利用されたときは大きな危機を迎えたけど、現在の神道はそれを乗り越え、より洗練されたものとなっている。これこそ真の世界文化遺産だ。

 ドーキンスの言う「ブライト」は、神道の“カミ”と置き換えたって、そんなに違わないのではないだろうか。