ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

旧き悪友を思って


 かまやつひろしさんの歌に「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」というのがある。聴いたのは小学生の頃だから、ずいぶん昔の話になるんだけど、今でもときどき歌っている。
 歌詞はというと、間違っても小学生向けじゃない。著作権に配慮しつつ、歌詞の意味を別の言葉で書くと、こんなかんじだ。
   ゴロワーズってタバコ、吸ったことある?
   あのジャン・ギャバンが、映画の中で吸ってるタバコだよ。
 二番のはじまりは、こうなる。
   一口吸ったら、君はパリへひとっとびなんだぜ。

 実際にゴロワーズを吸ったのは、(あたりまえだけど)大人になってからだ。キャビンから始まったぼくの喫煙歴は、ホープ、ピース、マイルドセブン、ハイライトといったあたりをうろついていた。要するに、自販機に普通に入っているタバコだ。それがあるとき街に出て、輸入タバコの並んだ自販機を見つけた。
 なんと、子供の頃から聞かされていたあのゴロワーズが入っているではないか!
 当時は輸入タバコが割高で、ふつうの国産タバコが180円だった中280円とかしたんだけど、ゴロワーズは比較的安かった。で、一口吸ってパリへひとっとびできたのかっていうと、まあパリはずいぶん辛口な街で、未体験な味のキツさに目を回してしまったような記憶がある。
 やがてスモーカーとしての経験値も高まり、ひと通り飽和してから、嗜好するブランドも安定化した。そして、日常が確立するということは、非日常のローテーションもできあがるということだ。ゴロワーズは、同じフランスタバコのジタン同様、お気に入りの銘柄になっていた。毎日吸うにはちょっときつい。でも、時々思い出して買ってみる分には悪くない、そんなポジションに落ち着いていたのだ。パリとは行かなくても、ココロ的にちょっと違うところに行きたいとき、少し遠回りして買うタバコになっていた。

 20年以上続いたぼくのタバコ遍歴は、あるときぷつっと終わった。吸うこと自体をやめたのだ。もう何年前なのか覚えていないくらい、喫煙者でない自分というのが、ぼく自身にとって定着している。
 喫煙という文化自体は、今でもリスペクトしている。だから、喫煙者を非難する気もないし、嫌煙原理主義者たちを鬱陶しくも思う。ただ、タバコの臭いはもうだめだ。入ったカフェが非分煙だったりすると、そのまま店を出てしまう。歩きタバコの人が前方にいたら、息を止めて早足で追い越す(風向きにもよるけど)。だからもうゴロワーズと出会うこともない。思い出の中に残る「友」の一人でしかない。
 ちなみに、この歌はシングル盤のB面だった。A面に入っていたのは、ほかでもない。こんなタイトルの歌だ。
  「我が良き友よ」
 下駄を鳴らしたバンカラ君と同じぐらい、ぼくにとっては遠い存在になっているのだ。



 当時の歌としても珍しいことに、“ゴロワーズ”には4番まである。3番の内容は、こんな感じだ。
   君は、まあそれが小さなことだとしてもさ、
   何かに凝ったりハマったりしたことはある?
   例えば、どこかの安いバーボンのウィスキーとか。
 小学生にとってゴロワーズは謎だったけど、ウィスキーはそうでもない。バーボンはわからなかったけど、まあウィスキーの種類なんだろうってことは、文脈からわかる。だけど、バーボン体験は、ゴロワーズ体験よりもだいぶ遅くなり、つい近年のことだ。
 元々ぼくはほとんど酒を飲まなかった。楽しめなかったのだ。
 アレルギーじゃないから、少しは体に入れられる。そしてアルコールにみあった身体反応が現れる。赤くなり、体温が上がり、視界が変化する。そして、もっと飲んでいくと、気持ち悪くなる。ふつうの人ならいったん気持ちよくなってから悪くなるんだろうけど、ぼくのはダイレクトだ。そしてかなりの頻度で、吐いてしまう。
 こういう癖のある人間が、酒なんて飲みたいと思うはずがない。社交というものがあるから同席はするけど、飲む量は必要最低限にしていた。乾杯のときのコップに注いだビールが、三本締めのときにもまだ残ってたりするほどだ。
 こちらも、いつの間にか変わっていた。
 今は、主にウィスキーを飲む。まれにロックにするけど、基本はストレートだ。銘柄は、マッカラン、シーバスリーガル、それに響と山崎。ボトルと対面した時の気分で選んでいる…‥なんて書くとすごい酒飲みのように見えてしまうが、実は「ほんの少しで危険」という元からの体質は変わっていない。要するに、ほんのすこししか飲まないということ。だから高い酒をずらりと並べることができる。

 こちらはゴロワーズと違って、「悪友」にはなれそうもない。理由はというと、ぼく自身の“変わってなさ”にある。「赤くなる→気持ち悪い」型のダイレクトではなくなったものの、元々の酒への弱さは今でも変わらない。少なくとも「気分が大きくなったり感情的になったりして暴れる」がないから迷惑はかけないものの、逆に言えば悪友になれるほどに深く付き合っていけないということなのだ。



 実際のところ、今でも“ゴロワーズ”を口ずさむのは、4番だったりする。いにしえの貴人は、何かを思ったり感じたりした時に、習い親しんだ和歌を諳んじたりしたものだけど、ちょうどそれと同じような感じで、ふっと浮かんでくるのだ。
   あるとき君は、こんな自分に気づくんだ。
   何を見てもやっても、ぜんぜん感激しなくなっている自分にね。
 何においても感激しなくなったことに気づき、唖然としている。
 もちろん、新しい発見がなくて人生が退屈、なんてレベルじゃない。経験値稼ぎの伸びしろはちゃんとキープしている。食べ物にたとえて言えば、山岡士郎レベル。海原雄山なら怒って立ち上がるレベルの料理でも「おっ、美味いぞ、これ!」ぐらいのことは思う。ただ、感激というレベルには達しなくて、栗田さんほどの悦びは見いだせない。ゲームとか映画とか小説とか、「うん、なかなか良くできてるね」などとつい思ってしまい、のめり込むことができにくい。リアル体験でも同様だ。旅行に行ってもアクティビティに挑戦しても、既存体験の延長でしかない。驚くためのネタを一生懸命探してやっと見つけられる位の感じ。そしてそんな自分の心のあり方に気付き、なんともいえない淋しさを感じたとき、ゴロワーズを口ずさんでいるわけだ。
 ところで、これの続きだけど、実はこの部分にはあまり同意できない。歌詞はこんな感じだ。
   君は無駄に歳を取り過ぎたんだよ。
   一生赤ん坊のままでいられたならよかったのにね。
   そう、赤ん坊。あらゆるものが珍しくて、
   何をしても嬉しいんだ。羨ましく思うよね。
 流れだからしかたないけど、正直納得できないまま歌っている。もっともっと大人でいたい。世界を理解するための視点を、赤ん坊よりは豊かに持っている。そのことを嬉しいと思う。同時に、一世紀後の人に比べると確実に少なくしか持っていないわけで、そのことを悔しく思う。きっと彼らは、意識や心について、確かな理解が得られているんだろう。M理論の検証だって済んでいるはずだ。そういうことを、ぼくは知らない。知らないまま、年寄りになろうとしている。
 とはいえ、全てを体性感覚として理解するあの姿勢には、リスペクトするところが大きいけどね。

 3度にわたって書いてしまった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」。なんとなく書きたくなって、書き終わると続きが書きたくなって、これが2度続いてしまった。
 こうなると、もう一度聴いてみたくなってきた。実家に帰れば、小学生の頃に買ったEP盤があるけど、そんなの再生するなんて骨だよな~と思ったら、iTuneストアにちゃんとアップロードされていた。
 気になった人は、ぜひとも聴いてみてください。いい曲です。まあ今の時代、放送電波に乗ることは難しい内容ですけどね。