ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

滝の水通信

 猫はよく同じ場所に陣取っている。お気に入りの場所なんだろう。こういうのは人間にだってある。最近、家の近くの本屋の横にタリーズコーヒーができて、ここのカウンター席がちょっとしたお気に入りスポットになっている。

 元々カフェは好きだ。前はスターバックスのテラス席が好きだった。タバコの煙をくゆらせつつ、本を読んだり雑文を書いたり。文字ばかり見ているのに飽きると、顔を上げて周りを見回したりもする。通りをせかせかと歩く人波を眺めていると、憧れの高等遊民生活のようで、実に幸せを感じたものだ。ただ、今はちょっと苦手だ。原因はタバコ。自分がやめてから、煙にめっきり弱くなってしまった。テラス席は、今や他人のくゆらせる煙に攻め立てられるという、呪われた席となっている。もちろん全然文句言えないんだけど。

 カウンター席というのは、本来は代用品なんだろう。ファミレスで案内先がカウンター席だったりする場合、スタッフは一応申し訳なさそうにそのことを告げる。

 ただ、ぼくは元々カウンターというのが好きだ。あの、ひたすら横に長いだけの板というのがいい。一人ひとりに区切られていず、それでいてきちんと領域が存在するわけで、それが開放感と緊張感を同時にもたらしてくれる。

 そして、カフェのカウンターの良さは、ファミレスと違って窓際にあるということ。特にタリーズのは、低くて広い。ふつうの椅子と同じようにゆったりと座ることができるし、パソコンの向こうに資料を置いておくことだってできる。

 今回のテキストは、もちろんそんなタリーズのカフェで書いている。そして、窓から見える風景を“肴”にしている。単に駐車場があって、人が流れてるだけ。なのに、その人々を見ているのが、様々な発見とか意外性とかがあって、なかなか面白いのだ。でも、これはあまり書かないでおこう。なんだか盗撮っぽいし。

 そう考えていくと、猫のもそんなに変わらないのかもしれない。猫はよく寝そべって偉そうに周りを見回しているけど、カフェの窓際で人々を見渡すのなんて、ほとんど同じなような気がする。

 高等遊民とくれば漱石漱石とくれば猫。がんばれば、うまくオチを付けられそうなんだけど、もうやめておく。