ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

再会から再開へ(3)

 書き物というのは、当たり前だが書き手を必要とする。だけど、書き手の顔が必ずしも見えているとは限らない。

 教科書では、書き手が自身の存在感をなるべく消すのが通例だろう。小中高で使うものが典型的だけど、大人向きの本でも、使われ方として教科書的なところを狙っていると、そうなってくる。例えばマーケティング。書き手としての「私」とは関係ないところに成立している知的存在物としてのマーケティングについて、書き手としての「私」を出さないまま説いていくというものが(特に高価なハードカバーでは)主流だ。ドラッカーコトラーなど、本自体が著者の知名度で売れているのにもかかわらず、そこに彼らの顔は見えない。

 とはいえ、全てがそんなものというわけはない。上記の対極にあるのが「オレの販売術」みたいな本だろう。書き手が自分自身の考えにもとづいてその実践を書いていく本。控えめな本もあるかもしれないけど、まあたいていが“俺様”モードだ。

 むろんどちらかだけしかないなんてことはなくて、両者をつなぐスペクトラムには無数の解がある。ただ、均等にバラけているわけではない。学校教科書を左端、俺様本を右端に置くとすると、マーケティングにかぎらず、ピークは左寄りの方にあるように思う。

 さて、ブログである。

 昔、そういう言葉が日本で使われだしたばかりの頃のそれは、明らかに右寄りだった。ブログ=日記であって、書いている人が自分自身の思っていることとか経験とかを書き綴っていくものが大半だった。でも、今はかなり左寄りになっていると思う。書き手自身とは切り離して考えるべき「何か」があって、それを客観的な視点から提示していく、例えば技術や知識の解説であったり、他サイトの記事の引用、そして本の紹介などだ。

 そんな変化の中、何をしていくべきなのか迷ってしまっていた。