ゲームは究極の科学なり

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F1まとめ書き

 先日、アイルトン・セナの名が、ニュースなどでさかんに流れていた。命日―それも、没後20年という区切りのいい―だったからだ。

 あの日「セナがクラッシュ」という第一報を聞いた時に、なんとなくそうなると思ったのは、ぼくだけではないだろう。それは映像もない簡潔なニュースで、伝えられた事実は「事故で重傷、病院に搬送」という散文的なものだった。なのにぼくは―ぼくたちは―、たぶんもう助からないのだろうということを、ある意味確信したのだ。

 これは決して後知恵のたぐいではない。実際、そう思った。まあ半分くらいは“わざわざ報道された”という事実がもたらした演出効果なのだけど、同時にこうも思わせるものがあった―セナという物語が完結するためには、それが必要なのだ、と。

 一応言っておくと、あの時代のF1は、もうそんなに危険極まりないものではなくなっていた。ボディはカーボンモノコックになっていたし、ガソリンタンクも事故時に火が出にくい場所&設計になっていた。ただ裏を返せば、それに先立つ時代はかなり危険だったということでもある。レースではちょくちょく死人が出ていて、でも「まあ、レースだし」と、問題にもされていなかった。頂点たるF1はここにおいても頂点で、ヨッヘン・リントなんていう、死んでからチャンピオンが決定した人もいたぐらいだ(残り4戦となるレースで事故死したが、それまでに稼いだポイントをシーズン終了まで誰も超えられなかった)。

 セナ自身ということではなく、たぶんぼくたちの目の側の問題だろう。映画『ラッシュ』で描かれていたような、「命知らずの男たち」なんて形容が必ず付けられていた時代の影を、ぼくたちはセナに見ていたのだ。