ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

F1まとめ書き(4)

 昔からのF1ファンには、たぶん共通する弱点がある。それは「観てもいないのに」ということ。

 70年代終盤に2回だけ行われた日本グランプリ、これはテレビにかじりついて夢中になってみている。レースが終わった後にシャツを脱ぎ捨て上半身裸で立ち去っていくジェームス・ハントの姿なんてのも、鮮明とは言いがたいが記憶に残っている(ヘタしたらパンツすら脱ぎ捨てかねない男だったなんてことは、当時は知る由もなかったけど)。

 ところが、そこで終わりだ。終わらざるを得なかった。肝心のテレビ放映がなかったからだ。BSやケーブルはもちろんビデオすらないその時代、テレビ放映がなければ、観る手段は現地に行くしかないわけで、グランプリの方がこちらに来てくれない以上、事実上無理だろう。

 では当時のF1ファンの情報源は何かというと、雑誌だった。グラビアを眺め記事を読み、ドライバーとかマシンとかを覚え、その走りを想像していくわけだ。

 あたりまえだけど、雑誌のグラビアは走らない。走っている状態を撮りましたよという静止画像にすぎず、実際にどのように走るのかは記事を読んで想像するしかない。その記事にしたって、今思えば怪しいものだ。F1専門のジャーナリストが転戦するチームたちを追っかけて取材なんて時代じゃない。結局、ライターが海外記事を元にして見たようなつもりになって書いてるんだろうし、それをぼくたち読者は見たようなつもりになって想像するわけだ。

 こんなだからこそ、物語性も増したのだろう。何重もの主観に支えられるからこそ、伝説が出来上がる。そして伝説のドライバーが輝けるのも、伝説の中だからこそだ。実際の走りを観れば、それはやはり実際のドライバーにすぎない。技にうなることができるのは、余程に目の肥えた玄人だけ。テレビで放映されると、みんながそれを観ることができてしまう。その中には玄人観客に成長できる人も若干はいるのだろうけど、多数決の中では埋没してしまう。