ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

F1まとめ書き(8)

 セナの話から始まったのに、気づいたらずっとセナ以外のことばかり書いていた。

 実は、ぼくは現役時代のセナについて、別にそんなに好きだったわけじゃない。大騒ぎする人が多すぎて辟易していたぐらい。走りがどうのって言っても、まあレースだから目を見張るオーバーテイクはあるんだけど、2時間近く続くレースの全編にわたってそんな際どいこと続けるはずもなく、ダイジェスト版で見せてもらわないと実感できないのではないだろうか。そして道義的には、間違っても人格者じゃないよね。最終戦の1周め1コーナーでわざとぶつけてチャンピオン確定させたっていう事実が、全てを物語ってると思う。純粋かつ貪欲に勝利だけを目指すというのは、ぼくは必ずしも美徳とは思わないし、そういう価値観に共感もできない。

 ただ、現象としてのセナには、大きな興味・関心を持つ。鉄ちゃんが文化も含めた社会システムとしての鉄道に興味を持つのと同じように、ぼくは人類が作り上げた楽しむための装置としてのF1に、レースそのものとかマシンそれ自体とか以上に、大きな興味を持っているのだ。そして、セナというアイコンは、ここにおいても極めて重要な意味を持っている。

 スポーツにおいてぼくたちが見たいのは、優秀な個人による勝利だ。チームワークによる勝利なんてのは、学園スポーツまでの話で、プロに求めるものじゃない。サッカーだって野球だって、結局関心事は選手個人になる。

 さらには、その個人が、共感できる物語を背負っていてくれるといい。逆境の中それをはねのけ、頼もしいパートナーとともにのしあがっていく。しかし時には裏切られ、また立ちはだかるライバルに夢を阻まれ、しかしそれらも全てはねのけて栄光をつかむ…そういう物語を背負える個人が、今後ひとりもいないなんてことはないだろう。でも、F1がシステムとして熟成されてしまった結果、「下位チームから出場したデビュー戦でいきなり入賞」なんてことは、絶対に不可能になってしまった。今あるのは「若くして有力チームの育成選手となり、下位カテゴリーで成績を挙げて注目され、ある日F1に大抜擢」なんてストーリーばかりだ。

 否応なしに、セナは“最後のなにか”になってしまっている。そしてこのことは、F1が失った何かを象徴するアイコンとして、今後もずっと語り継がれていく存在であることを意味しているのだ。