持ち家プロローグ(5)
引越しのフラクタル性は、家そのものがフラクタルな構造体であることに根ざしているのかもしれない。
基本的には、箱にすぎない。ところどころ斜めにカットされていたり、穴があったり張り出していたりだけど、箱を適当に間仕切りしたものとして、とりあえず理解できる。ところが実際に買うとなると、想像もしていなかったようなオプションが現れる。例えばエアコン。壁をどう抜くか、室外機の設置場所をどこにするか、室外機および配管にはカバーを付けるのか、そのカバーの色はどうするのか…他にも、テレビとか電話やLANとか、家そのものはできあがってるのに、いくつもの判断と選択をしなければならない。
そして、そんな家もまた、より大きな単位におけるフラクタルの下位次元にすぎない。街の視点から見た時、それは一つ一つが意識されるようなものじゃない何かとなるのだ。
この「部分」と「全体」の関係は、一筋縄ではいかない。
前回書いた幼児期を過ごした場所、実際にはあおなみ線だけが全てを変えてしまったわけじゃない。というか、ほとんど何一つ残っていないはずだ。昭和30年代の市営住宅は、平屋だった。モノポリーの家を長くしたような粗末な戸建てが真ん中で2つに分けられ、二戸分の住宅になっていた。今はそんなものなど残っているはずもなく、鉄筋コンクリート数階建ての団地に置き換わり、それすらも建て替えられてマンション型の十数階建てにと変わっている。物流用に掘られた運河も埋め立てられ、長細い公園が出現している。
なのに、やはりそこは紛れも無い生地だったのだ。
全体は、部分の足し算ではない。全体として、それ自体の存在になっている。家そのものを単位とした時にも、きっと同じことが言えるのだろう。その意味で「いい家」に住んでいきたいものだと思っている。