ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

本棚を待ちわびて(4)

 少し私的な話に流れてしまった。書き出しの、人はなぜ本を買うのかに戻ってみよう。

 物欲の対象として本を求める、これにはどうも浅ましさがついて回る。例えば高度成長期では、文学全集と百科事典が出版社の定番商品だったわけだけど、これらが売れたのは「書棚に重みを与える」ためだ。応接間に来客を招き入れるという風習が庶民層にも広まった結果。ようするに背表紙を見せるためだけに買われていたようなもので、こうなると室内装飾の一種ということになる。また、所有者を賢く見せようとする偽装工作とも言える。若者層だって、全集こそ買わないけど同じようなものだ。「資本論」や「大論理学」なんて、そうでもなきゃ商品として成立するはずがない。

 ただ、コレクションというのは趣味における基本パターンの一つなわけで、元来そう悪いわけではない。ぼく自身が先に述べたように、本を持つことには、それ自体にライフスタイルの主張という意味がある。そして、特定分野の本をコレクションするということは、その分野に帰依していることの表明でもあるわけだ。

 単に自己顕示欲だけが動因だったとしても、否定面だけじゃない。本というマテリアルが歴史を超えて伝えられてきたのも、お金や権力を持つ人たちが、そういう方向で自己顕示欲を満たしたかったからなのだ。すなわち「薔薇の名前」に描かれていたような中世修道院など。それに、アレクサンドリアに巨大図書館を作ったファラオだって、自分が読みたくてそうしたわけじゃないはずだ。

 今その本に、大きな変更がおきつつある。ほかならぬ、マテリアル性が失われようとしているのだ。

 電子書籍のことだ。