ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

本棚を待ちわびて(6)

 紙の本は、そこに立ててあるだけでも、相応の情報量を持っている。本棚に本を並べておきたいのも、半分はこれだ。背表紙を眺めていると、それを読んだときの記憶がよみがえってくる(先述の通り、全てとはいかないけどね)。そういうものを引き起こすだけの情報量が、紙の本にはある。

 それは、中身まで繋がる道でもある。例えば、どこかに書いてあったことを探す。そのために紙の本ですることは、ぱらぱらめくり続けることだ。そして、厚みとかイラストあるいは折り目や汚れなんかを頼りに探していくことができる。また「あとで役に立つかも」と思ったら、線を引いたり書き込んだりすることもでき、あっという間にたどり着くことができるだろう。電子書籍では、これは難しい。本と同じスピードでページをめくっていくことがまず無理だ。結局検索をかけなければいけないが、検索というのは対象文字列がわかっていないと手も足も出ない。調べたいこと自体がその特定文字列である場合というのが、現実には少なくない。

 そして、中身に至っては決定的だ。これは、新聞を考えてみるとよくわかる。asahi.comでは、紙版の朝日と同じデータが毎日更新される。でも、あんな膨大なテキスト読み切れるやつなんてまずいないよね。これが紙版では、朝食食べながらでちゃんとカバーできてしまう。紙の新聞の情報量は豊富で、いちいち記事を読むまでもなく、それが読むに値するかどうかが解るのだ。


 では本を並べるもう一つの側面、つまり「コレクション」はどうだろうか。

 物としての実体がない電子媒体は物欲の対象になりにくいし、無限に複製できるという特徴もあるから、コレクションの対象にはなりようがない……なんて考えがあった。実はぼく自身もそのように感じていた。ファミコンから始まるゲームソフトの歴史も、そのことを物語っているように見えた。パッケージを持つことそしてそれを並べることによる所有&コレクション欲の充足。それは決定的なもののように見えた。だからこそ、夢が膨らむはずだったファミコンディスクシステムは、任天堂とは思えない格安価格にもかかわらず(1タイトル500円で書き換えることができた)夢と一緒に萎んでしまったのだ。パソコンでも、ブラザー工業(ちなみにこの会社はうちの学校のご近所さんです)が8~16ビットパソコンの時代に「TAKERU」というソフト自動販売機を展開していたのだけど、これもメジャーになりきれず終わってしまった。これらは、普及するためにはマテリアルが必要だという雄弁な証拠ではないか……。

 それが浅はかな考えだったことを思い知ったのは、ソーシャルゲームのおかげだ。人間の所有欲は、物があるとかないとかで動くような、そんなシンプルなものじゃなかったのだ。こういう欲望の刺激という局面では、しょせんぼくたちなどメーカーの人間で、マーケ屋にはとても叶わない。