ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

本棚を待ちわびて(8)

 電子書籍については、もう何年も前から自分自身のテーマとして考えてきている。実際に書いてみたり、形式を考え試作してみたり、また一消費者として積極的に購入もしてきた。だから、浅はかな論説がぶたれているのをみると、哀れに思う。この人たち、たぶん気付いてないんだろうな。自分が本読むときに何をしているのかとか、全然気にもとめてないんだろう。そして本というマテリアルの本質にも気付かず、単なるテキスト情報としか思ってなくて。あるいは電子書籍自体も満足にハンドリングしていないのかもしれない……なんてね。

 その一方で、単純な慎重論も、やはり好きになれない。多くの場合、言い分があまりに当たり前すぎるからだ。「紙の本の方が使いやすい」とか「紙には紙にしかない利点がある」とか力説されたって、それは「1に1を加えれば2になる!」とか言われているのと同じだ。主張に全く意外性がない。すなわち、情報量がないということだ。当人たちは社会への木鐸のつもりかもしれないけど。

 ただ、ひとつ注意することがある。新しい何かは、必ずしも古い何かの代替品ではないということだ。今人々は、電子書籍が紙の本に取って代わる未来を前提に論議をしているのだけど、本来それは代替品ではないかも知れないのだ。ラジオは新聞を置き換えなかったし、またその後に登場したテレビに置き換えられることもなかった。映画界は当初テレビを敵視していたが、今ではスクリーンよりも多くのインカムをテレビ受像器がもたらしている。

 まあ、電子書籍という媒体は今まだ普及しているとは言いがたく、そのためここから先当分の間は右肩上がりが約束されていると言える。ぼくとしては、それが前に向かって進むものであることを望む。電子書籍は、コンピュータを使って実装される技術だ。ならば、それが持ちうるメリットをきちんと反映したものであって欲しいと思うのだ。

 だけど「悪貨が良貨を駆逐する」のは、資本主義400年の伝統だ。