ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

本棚を待ちわびて(10)

 好きか嫌いかということと、何をするのかということは、切り離して考えなければならない。「するのか」は、「しなければいけないのか」でもあるし、「できるのか」でもあるけど、結局のところは「どうなるのか」が大きい。この一歩は、“私”から“公”へのシフトだ。そして、好き嫌いの部分にも同じシフトをかけると、「良いか悪いか」として立論されることになる。

 ぼくは紙の本が好きだ。その便利さの前にはいろいろな不便さはがまんできると思う。そして、情報体としてのぼくの成分はかなりの比率で紙の本によって作られてきているわけで、自分自身が「紙の本」集合に還元できれば嬉しいとも思う。つまり、本を出し、それが読んでもらえるということ。ジュンク堂紀伊國屋あるいは図書館の開架なんかに自分の本が並んでいる状態を想像すると、わくわくしてくる。

 でも、現実問題としてどうか。ゲームデザインなら、自信を持って書ける。15年くらい実務やってたし、15年くらい教員をしている(そして約10年は二足のわらじだ)。だけど、内容が良ければ売れるなんて信じられるほど経験値不足ではない。ゲームデザインなんてテーマで書かれた日本語の本の需要なんてたかが知れているし、実際にはその少ない椅子を著名業界人と翻訳書が占領してしまっている。自費出版―『あなたの原稿を本にしませんか』の類―なら出せるけど、かかる費用がばかにならない(書店で自分の著書と出会うのもまあムリだろう)。残る方法は同人誌だが、これはこれで独自の難しさを持っている。

 だからぼくは紙の本以外の方法を考えなければならない。電子書籍という選択は、好き嫌いの問題ではないし、良い悪いの問題でもないわけだ。

 そうと決まっている以上、できるだけいいものを作りたい。だけど、世間が用意している枠組みというのが、必ずしもいいものじゃない。

 「電子書籍」という言葉が出てくる前から、このへんには注目していた。特にWebが登場した時、これはいけるかもと思ったのだ。だけど、実際に普及していく中で、大きく変わっていってしまった。CERNが作った時点でのWWWなら「本の進化型」たり得たかもしれない。と同時に、エンターテインメントメディアとしての可能性は今ひとつだった。後者を伸ばした結果前者の目が消えた、そういうことだろうか。一方、PDFなんてのもある。登場時点では期待もしたけど、まあひどいものだ。ぼくはアドビという会社が大好きだけど、こと電子書籍的な視点から見た場合のPDFはいただけない。紙と電子の悪いところだけを足したようなものとしか言いようがない。

 ただ、媒体の規格まで考えるのは、やめにしよう。ソフト屋の癖として、ついこういう発想に立ってしまうから始末に悪いんだが。ようは、書くこと。今のぼくの立場では、まずそれに取り組まないと。