ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

合言葉はアンチ反知(3)

 他人ごとのように罵ってきたけど、実は反省すべきところもある。下品なおやじがのさばっていた当時、若者や少年はどうしていたのか、ということだ。

 70年代、ぼくは子供だった。そして当時の大人は、臆面もなく下品だった。だらしなく酔っ払って駅のベンチにごろ寝しながら、他人への迷惑という視点を持つこともなく「体に悪いよなあ。でもわかっちゃいるけどやめられない」なんてスーダラ歌ってた。女遊びという言葉があり、具体的には買春行為のことなのだが、これは「男の甲斐性」だった。そしてアジア旅行というのはまず買春ツアーだし、仕事で行く出張旅行すら日没後はそうなってしまうのだ。そんな自分たちの行動を冗談めかして公言して憚らないほどに厚顔だったといえる。

 でも、同じ時代、ぼくたち子供も彼らと同じ「男らしさ」価値観を、しっかりと共有していたのだ。ところかまわず立ち小便をし、カエルや昆虫などの生き物を面白がって殺し、女子を見下したり性的からかいの対象にし、物理的暴力による秩序を肯定する。そういう行動パターンに対して与えられる言葉が「男の子らしい」だった。そして、用便にあたってトイレを要求し、昆虫採集やカエルの解剖を好まず、女子も男子も分け隔てなく接する次の世代の男子児童を、「今の子供はひ弱でいかん!」と批判する大人たちといっしょになってバカにしていたのだ。

 ぼく自身は、概ね中学生のときに「下品≒男らしさ」価値観と決別できた。でも、同級生の中では少数派だったようにも思うし、100%決別できたかというとそれほどでもない。

 自分自身の中にある下品成分が自分でも気づかないうちに熟成し、まもなく噴出してきてしまうかもしれない…そう思うと、とても不安になってきてしまうのだ。