ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

合言葉はアンチ反知(5)

 昔の下品なおやじは、高等教育が崩壊していた時代の産物だったと思う。例えば第二次大戦期から戦後にかけて、教育システムはほとんど機能しなくなっていたし、復活してからは常にキャパ不足に悩まされていた。そしていったん数だけは何とかなったものの、学園紛争の時代を迎えることで、内容的にはまたしても崩壊した。

 高度成長の時代というのは、リーダー教育を受けていない人間でもリーダーにならざるを得ない時代だ。世の中は右肩上がりで、会社は膨張を続けている。「品がない」なんて理由で昇進させないでいると、中間管理職があっという間に足りなくなってしまう。「最低限の能力さえありゃいいんだ」になり、しまいにはそれすらも求められなくなった。

 でも、そういう妥協は間違ったメッセージを与える。「人の上に立つためには、品格と能力が必要だ」という本来言葉にするまでもないはずの常識は消え去り、代わって「上にへつらってりゃいいんだよ!」が伝わってしまうのだ。そして自民党議員は「野党議員にぎゃふんと言わせてやって、古手のボス議員たちを喜ばそう!」ということで、手段を選ばなければまあこういう結果になってくる。

 ちなみに、ぼくは「不正規発言=悪」だなんて思ってはいない。これは授業やってる教室のガヤガヤと同じで、全くしーんと静まり返っていると参加者にとってもフィードバックがないということになる。重要な議題であることを示すにあたって、騒然さは演出的に必要不可欠なのでは? 今は議場が実際に騒然としてくれるからそのまま録音すればいいけど、もしそれがないのなら、効果音を入れないといけなくなっちゃうよ。だいたい、正規発言以外しーんと静まり返っていて、黙々と賛成の挙手をするなんて議場、全体主義国家みたいで気持ち悪いだろう。

 問題はやはり中身だ。野次にはエスプリとウィットがほしい。そういう意味で相手の痛いところをつくべきで、手段を選ばない嫌がらせで代替するというのは、ゲームのルールを無視している。