ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

引け目を感じるとき

 街に浴衣のカップルをやたらと見かける日があったら、それはたいてい花火大会の日だ。東京なら、隅田川や東京湾。そして名古屋でも名古屋みなと祭花火大会なんてのが開かれる。このブログを書いている今日(7月21日)が、その日だ。

 地下鉄の券売機で、彼らと並んでいるとき、なんとも言えない引け目を感じた。こちらが一人でいることにだろうか、それとも浴衣を着ていないことにだろうか。まあ年齢&立場的に言って前者はない(実は、けっこう若いやつと張り合っちゃう男なんだけど、この局面では“なし”ね)。彼らが浴衣なのにこちらはTシャツ。それは、場違いなところに場違いな格好で来てしまった時の決まりの悪さとある程度共通する。でも、それだけじゃない。

 ぼくは浴衣を着たことがない。旅館のなら例外的にないでもないけど、よほど追い詰められた時だけだ。持っていないとか、着方がわからないとかの水準ではない。「着て外を歩く服装としての浴衣」というカルチャーが、ぼく自身の生活モードの中に存在していないのだ。

 だけど、目の前にいるチャラい若造―ロン毛だったり、金髪だったり、ピアスだったり―には、それがある。しかも、バチッとキマっていたりする。また、仏頂面で腕組みしつつさっさと歩く(しかもそれを女の子が半歩遅れてしゃかしゃかと付いていく)なんて構図を見せたりして、これもサマになっていたりする。考えてみれば、元々浴衣というのはイナセな江戸男のスタイルであった。

 こんな中で感じた引け目の正体。これは「ニッポンのおとな」としての恥なのだろう。例えていうなら、料理のできない主婦と同じような居心地の悪さ、というところか。乗り越えたかったら、着てみるしかないのかもしれない。実を言うと、浴衣に限らず、和装というのをしたことがなく、壁はとても高いのだが。