ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

デスクトップのあれこれ(6)

 クラウドコンピューティングというコンセプト、発想自体は名前そのものほどは新しくなく、むしろパソコン以上に古いとも言える。

 コンピュータという道具、単純化すれば、3通りのユニットで構成されている。ユーザーインタフェイス、内部処理、外部記憶だ。

 大型電算では、それぞれが別のユニットになる。「小さな個人向けコンピュータ」に向けての2つの思想のひとつは、そのあり方を公衆ネットワーク回線とともにそのまま導入するというもの。つまり、内部処理も外部記憶も持たない端末機を一般人向けに作り上げ、プログラムを動かしたりデータを保存したりは、オンラインの向こう側で行うというものだった。実際にはもうひとつの思想―全部小さくして一つにまとめる―が勝利し、ぼくたちはパソコンを手にすることができたのだけど、もしそちらの方が採用されていたら、クラウドなんて言葉自体が存在しないほどに、クラウド的なものは普遍化していたわけだ。

 今日では、実際には両者のハイブリッドになっているといえるだろう。クラウドコンピューティングでは、外部記憶だけをオンライン上に持たせる場合が多い。そして「それだけ」というわけではなく、ローカルマシン上にも同じデータを持ち、機会をみては同期させるという方法をとる。とはいえ、十分に便利だ。

 ぼく自身、個人の環境では、もうメーラーを使っていず、gmailに依存している。そして記録目的の文章なら、Evernote。前に書いた夢日記も、再開した時にはEvernoteを使用した。ただ、だからこれさえあればいいのかというと、そうでもない。Evernoteはとても便利だが、一つ問題がある。物書きモードでの道具として、あまりに殺風景だということだ。

 万年筆とかノートとか、人はそういう局面には惜しげもなくお金を使う。なぜなら、文章を書くためには気持ちが大切だからだ。ペンの滑りとか引っかかり、そういう感覚的な情報について、書き手は必要以上にセンシティブになる。横に3つ並ぶ3ペインの構成は、今どきの横に長いディスプレイを意識しているのだろう。この時点で、主にポートレートで使っているぼくにはとても相性が悪い。縦書きだってもちろんできないし、そもそも「書き手のこだわり」なんてものに配慮しようという意識すらない。