ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ハードにライトな物語(2)

 ミステリーという分野は幅が広い。

「刑事事件かそれっぽいことが起き、それを中心にして話が進む」

 これさえ抑えておけば、後はお好きなように。歴史や哲学を論じてもいいし、ワインや紅茶のうんちくを傾けたり温泉めぐりをしたりもOKだ。

 ただ、そこにはルールがある。矛盾する事実は解決されなければならない、ということだ。物語の中でいろいろな事実が提示される。その中には、矛盾するものも含まれているだろう。しかし、一度出てきた以上、それは終わりまでに解決されなければならない。チェーホフは「劇中に銃を出したら、その引き金は引かれなければならない」って言葉を残した。そのことにならい、ぼくはこれを「拡張チェーホフ原則」と呼びたい。

 そしてもう一つ。解かれるべき謎、が必ずあるということ。通常それは「刑事事件かそれっぽいこと」にまつわる。ただ、単に犯人が誰かだけで終わってしまうことはなく、ストーリー全般を貫く謎というのもある。

 ともあれ、この2つのルールのせいで、ミステリーは特徴づけられる。「数理文学」と言ってもいいほどに、その構造が論理的に明快なものとなっているのだ。これは、教育という現在のぼくの立ち位置からすると、とても価値の高いものだ。

 この構造の明快さは、記録の取りやすさにもつながる。今、ラノベのまとめをやっていて辟易するのが、まとめにくさだ。がんばってみても、ブックカバーに書いてあるアオリ文句以上のものにならない。情報は構造化することでデータになる。それができないんじゃ、データベースにもなりようがない。

 とはいえ、ポイントはそっちではなく、論理性からくる「書きやすさ」の方だ。そして読みやすさ=自己評価の容易さにも繋がってくる。

 書くためには技術がいる。ストーリーテラーを目指す学生は、そういうものを学んでいかなければならないけど、学ぶといっても、実際には「試しにやってみる」以上のメソッドはない。このとき、ミステリーの持つ高い論理性は、いいお手本になる。作品中で何人も人が殺されたりするけど、この意味で実に教育的に好ましいといえるのだ。