ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ハードにライトな物語(3)

 「とかれる」には「解かれる」以外に「説かれる」もある。これも含めて「とかれるべき謎」ということを考えると、実はほとんどの小説に共通な仕掛けであるとも言える。メロスは間に合うのか。アントニオは1ポンドの肉を差し出さなければならないのか。坊っちゃんは赤シャツに対して何をするんだろうか……結局そういうものは読者の興味を引き続けていくための仕掛けとして機能する。物語を考えるということは、実は謎を考えるということではないだろうか。

 もちろん、キャラクターなり世界設定なりは重要だ。でも、それらにしたって、読者に対しては「とかれるべき謎」として登場させないといけない。

「パズーさん、私はシータ。ラピュータ国の女王です」

 なんて冒頭で言われたら興ざめでしょ? 謎の少女が空から降ってきて、説明もないまま軍隊に襲われたりするから、観客の興味を引くことができるわけだよ。

 ミステリーには、「3つのダニット」という便利な概念がある(ダニットはdone itのユニゾンだけど、綴りもdunitと変化している)。

  フー・ダニット(Who Dunit):誰がやったのか

  ハウ・ダニット(How Dunit):どうやったのか

  ホワイ・ダニット(Why Dunit):なぜやったのか

 本格推理なら、フーとハウが中心だ。どのようなトリックを使って誰が殺したのか、ここに該当する。でも、ホワイ・ダニットがどうでもいいのかというとそうではなく、ここがうまく調和していないと小説としての読後感が薄い。そしてふつうの小説も「刑事事件のないミステリー」と考えれば、この3つのダニットが役に立ってくるはずだ。

 そんなわけで、ちゃんと読んでもらうための小説を書くための教材としてのミステリー。ただ、これを使ったメソッドの実績はというと、残念ながらほとんどない。シナリオ部顧問になる前からそういう指導はしてきてるんだけど、これまで何度もやろうとしては学生にそっぽを向かれ続けてきてもいるのだ。

「オレ、別にミステリ−書きたいわけじゃないっすから」

 なんて言ってくるわけさ。でも、ミステリー志望者だけのためにあるんじゃないんだよねぇ。