ゲームは究極の科学なり

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ハードにライトな物語(5)

 一方で、不安もある。どうも「収穫の時代」が終わってしまっているのではないかということだ。

 直接的には、様式化が感じられるということ。こういうキャラクターがこういう舞台でこういう筋書きの物語を演じる、そしてヒットしたら続編がずっと続けられるように話の終わりをまとめておく……そんな感じを受けるのだ。特にゼロ年代後半頃から、顕著になっているように思う。主人公は「ぼく」で、自称「クラスでも目立たない平凡な高校生」。それが突然やってきた転校生(能力または性格が極端な美少女)に振り回され、ドタバタ騒動に巻き込まれる……なんてあらすじでまとめられる作品、いったいいくつあるんだろうか。

 本来「何でもOK、読者層が共感できるものであれば」だったはずのラノベ。そして、SFだのミステリーだの、様々なバックボーンを持つ書き手が次々とやってきた結果、百花繚乱の収穫の時代を迎えた。しかし、読者層を狙うために追求した様式が、ヒットが出ることで固着化、いつの間にか定義にすりかわり、「ラノベとはこういう様式を『面白い』と思う読者層に向けて書く小説だ」ってことになっていないだろうか。

 戦後間もない頃、俳壇に対する批判として「第二芸術論」というのがあった。俳句というのは同好の士にしか通じない芸術で、そういう人たちだけが家元制にも似た党派性で互いに評価し合うことによってシステムとして成立させているにすぎず、芸術としては一段低いものなのだ……という批判だ。現代国語の試験問題で知ったんだけど、うまいことをいうなあと関心したものだ。

 でも、このままでは、ラノベがそこにはまってしまう。様式化した世界では、他分野での読書経験を持つ人を感心させることはできず、読者層が固定化されてしまう。「そういうの」を愛好する人によって読まれ書かれる、閉じた輪の中に収まってしまうのだ。


 追記:第二芸術論は、桑原武夫(現国の試験問題の常連さんでした。今はどうなのかな?)によって書かれ、1946年に岩波「世界」に掲載されている。10数年前、往時の論説を再録した企画本が出ていて、ぼくはそれで現物を読むことができた。はっきり言って、半世紀前の評論とはとても思えなかったよ。話題の鮮度が全然落ちてないんだね。それは俳句の持つ問題も全然変わってないってことなんだろう。なおWikipediaにも出てるけど、詳しく知りたい人にはこちらのページがお薦めですよ。