ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ハードにライトな物語(6)

 最近はあまり聞かないけど、「ドッグイヤー」なんて言葉がある。IT産業の分野で使われ始めた言葉で、生まれて1年で“おとな”になり、2年目から数年は稼ぐけどやがて衰退期に入り、10年を越したあたりで消滅……なんて業界の標準的なライフサイクルを、犬の人生に例えたものだ。

 年数が正しいかどうかはともかく、こと「流行りもの」のライフサイクルがめまぐるしく展開するのは、一般則といえるだろう。様式化というのも、そのサイクルのフェイズに位置づけられるものだ。それが確立してからの方が、ビジネスとしては本格化する。でも、面白くなくなる。

 ゲームの場合、どうか。カテゴリーとしてどれに注目するかにもよるんだけど、とりあえず現在にもつながる、3Dコンソール機の場合を観てみよう。

 一応、3DOとかピピンとか、先駆的なマシンはあった。だけど、本格的な到来は、プレステの登場によって始まった。従来のコンソール機とは全く違う仕組みでゲームソフトを動作させるプレステは、ソフトの作り方でも全く違う方法が要求された。その結果次々と現れたのが、定義困難なゲームだった。『IQ』『パラッパラッパー』『がんばれ森川君2号』などなど。ゲームというのがある意味手詰まり感を見せていた中、それまで全く存在していなかった遊び方を提示したタイトルが次々と現れ、脚光を浴びる。まさにゲームデザインにとって収穫の時代だったのだ。

 その頃のプレステは、CMで「行くぜ、100万台!」なんてキャッチコピーを使っていたくらいだから、ビジネスとしてはかなり寒かったはずだ。やがてプレステはどんどん普及し、メジャーなパブリッシャーが参入、定番タイトルの新作が次々とリリースされるようになった。でも、そうなるともう収穫の時代も終わってしまう。

 ライトノベルも、そうなってしまった?

 ビジネスとしては、昔よりもだんぜんに潤っているだろう。アニメになり、コミックになり、フィギュアだのグッズだのとマーチャンダイジングされる。本の売れ行きにフィードバックするし、多大な副収入ももたらしてくれる。でも、その構造の成立が、逆に作品性の自由度を阻む。こんにちアニメになりづらい企画というのは、それだけで通らなそうだ。