ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

本当は敗戦記念日

 『7月4日に生まれて』っていう映画がある。日付だけで何のことか解るアメリカ人だけを観客として想定しての命名だろう。たいていの日本人には何のことかわからないけど、オリジナルを尊重して、日本での公開もこのタイトルのままだった。

 で、この文章が掲載される今日は、8月15日。

 どうなんだろうか。日付だけで意味が解る日本人は、多数派なんだろうか。

 毎年この時期になると、アンビバレントな感情に揺れ動いてしまう。自分自身の旗色をどちらにすべきなのか、悩んでしまうのである。平和を訴え、戦争反対を叫ぶ人たち。その理念にはもちろん反対すべくもない。戦争なんてないほうがいいに決まっている。ただ、彼らの具体的主張とか態度とかには、どうにも納得出来ないことが多かった。というのも、戦争や軍事について学ぶことを、タブー視する傾向があるからだ。古くは戦争マンガやミリタリー系のプラモデルにいちゃもんを付け、比較的新しくは軍事シミュレーションゲームを敵視する。そして『風立ちぬ』すら「人殺しの道具を好意的に描いている」なんて批判したりする。  

 ぼくは、かなり勉強している方で、国際&国内政治だけにとどまらず、実際に展開された陸上作戦や海戦についても、指揮官の名称のレベルから把握している。兵器についてももちろん詳しい。書こうと思えば『永遠の0』だって書けたぐらいには知っているのだ。だけどこういう人間は、百田氏と十把一絡げで危険人物視されるのである。

 そこから言うと、8月15日という日付にぽかんとしている人が増えている現状は、理想的なはずだ。だけど、そうは言わないよね。「私達は決して忘れてはいけないッ!」と来るよね。でも、疑問を持って勉強することはタブー視するわけだ。

「せんせい、戦争って、なんでやっちゃいけないんですか?」

「そんな疑問を持つなんて、あなたはとんでもない子ねッ!」

 このやりとりがおかしいって想わなかったら、そのほうがおかしい。

 まあ、簡単に結論付けられるような問題じゃないから、違和感の表明だけにとどめておく。

 ただ、批判精神を持つことは、人としていちばん大切なことだ。その意味で、ぼくは敗戦したという現実の直視が、例えどちらの立場に行くにしても、いちばん大事なことだと思う。これを「終戦」と言い換えるのは、批判精神の否定だと思うのだ。