ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

なんだよ、その名前


 最近、スポーツ周りのニュースで、気になる名前をみかけた。その名もエリートアカデミー。有望なキッズ〜ジュニア選手を全国から選抜し、全寮制でみっちりと集中的なトレーニングを行って、世界で通用する選手に育て上げるための機関だとか。JOCが運営しているのだという。
 なんだか、どうにも鼻持ちならないクソガキの姿が浮かんでくるようじゃないか。
「ボォクはエリートアカデミーの一員。君たち一般人とは格が違うんだよ!」
 とか言いながら、メガネくいくい動かしたりとか。スポーツマンガの敵役にぴったりだ……なんてね。
 実は、競技スポーツの世界では「エリート」なんて言葉、ただの記号に過ぎない。競技者を市民参加と分けるために使うだけの一般語なのだ。競技連盟に登録している選手だけのカテゴリーが「エリートクラス」。「学連+実業団」と言う代わりに使う言葉ということだ。
 というわけで、エリートアカデミーなんて言っても、実は「競技者学校」と言っているのと変わらない。だから気になってるのは、とりあえず名前の無神経さについてだ。
 なんでわざわざこんな反感を買うような名前つけちゃったんだろうか。JOCというのは事実上の国家機関なわけで、まあ発想が役所っぽいのはしょうがないんだろうけど、もっと言霊というものを大切にしてほしいなと思う。
 資本主義国家にとって、お客様に気に入られることは絶対要件。特に体育会系というのは元々ネトラーに嫌われがちなんだから、行動には気をつけないと。あっという間に魔女狩りデモクラシーの餌食になってしまうのだ。



 エリートアカデミーは、全競技を対象にしているわけじゃない。卓球やフェンシングなどから始まり、現在では高飛び込みやライフル射撃なんかをカバーしているのだとか。
 このへんから皮肉で残酷な事実がもうひとつ浮かび上がってきてしまう。エリートアカデミーの対象たる競技自体は、とてもエリートとは呼べないということだ。日本におけるエリート競技ときたら、当然野球やサッカー。これらには、そんなものなど必要ない。キッズ年代から才能ある選手を見つけて訓練するシステムが出来上がっているし、ジュニア年代のすぐ次にはプロデビューが控えている。
「そうなんですよ、だから私達の競技には、これが必要なんですッ!」
 なんて、いうんだろうね、関係者は。
 ただ、そういう競技を、そんな昔の社会主義国家みたいなシステムで保護し続ける必要があるんだろうか。
 前から思ってるんだけど、元々日本にはスポーツの競技数が多すぎるんじゃないだろうか。オリンピックの種目にあるからといって、日本でもやらなくちゃいけないというものじゃない。競技者が自然減して大会が成立しなくなるような競技は、やはり消え去るに任せるべきなのだと思う。もちろん、昔から存在していたものがなくなってしまうのは、文化的には寂しいけどね。でも、なくなって寂しいものは、スポーツ競技だけじゃないよね。
 ともあれ、何かが与えられる背景には、何かが奪われていることを無視してはいけない。
 エリートアカデミーの費用は、たぶんサッカーくじの収益金とかから出ているんだろうけど、これを「税金使ってないんだからいいじゃん!」と思ってたら、それは甘い。もしtotoを買ったお客がその代わりにゲームソフト買ってくれてたら、ゲーム産業の収益につながる。そしてそれはゲームという文化的輸出産業の拡大再生産に生かされていたわけで、その機会を失わせる代償(機会費用)ともいえるわけだ。



 機会費用という視点からは、もうひとつ隠れた問題がある。選手自身の支払うそれだ。
 「何かをする」ということは、同時に「別の何かをしなかった」ということになる。これに要した“しそびれた”分をコストとして考えるのが、機会費用という考え方。例えば国立大を受けるためにはセンター試験の勉強をしなければならない。でも、そのために必要な数学と理科の勉強は、私立(文系)を受けるにあたっては、必要ない。
「国立だとせいぜい地方大学だよな。でも私大に徹すればけっこういい線行くし」
 なんて機会費用の判断、受験生なら当然のようにしているわけだ。
 ということで、マイナー競技に取り組んだキッズ&ジュニア選手は、何を失うのか。いうまでもない。メジャー競技をする機会を失うことになる。
 だいぶ前だけど、なわとびの競技連盟の人が取材に応じているのを、報道番組で見たことがある。最近は、踊りながら跳んだりアクロバティックな技を決めたりするのもあるけど、これはそうじゃなくて、昔ながらの数を競う(まあ、二重跳びとかクロスとか、技もないではないね)なわとび。そんなものに競技連盟があることがまず驚きだけど、なんと彼らの目標はなわとびをオリンピックの正式種目にすることなんだとか。そして悩みの種が有力選手の離脱。小学生の時に実に有望だった選手が、中学になると野球やサッカーなどの競技に移ってしまうという、実にもったいないことが起きてしまう……競技連盟役員はこんなことを話していた。でも、常識的に言えばどっちがもったいないのか。
 まあ、人生はその人のものだからね。でも、実はNFLファンとしては、思うのですよ。もし室伏さんがアメフトやってたら、なんてね。プロ野球の始球式でいきなり130キロ台投げる投力、100メートル10秒台の走力、そしてあの体格。敵のどんなチャージにも微動だにせず、投げるも走るも思いのままという、無敵のクォーターバックが誕生しただろうに。加えてあの顔。引退後は、ハリウッドに転向できちゃうよね。でも実際には、豊田の片隅でずっとハンマー投げてる。
 ただ、エリートアカデミーの発想は、マイナー競技における有望なキッズ選手を、他の種目に「行かせない」ためのものともいえ、なわとび競技連盟の人に対して感じる違和感は、そのまま残ってしまうわけだ。



 マイナー競技がマイナーである理由。これは、メジャー競技がメジャーである理由の裏返しといえる。
 野球には、身銭を切ってでも観戦したいという顧客がたくさんいる。また、自分自身がプレイするスポーツ=ドゥ・スポーツとしても人気があり、用具や用品への需要もある。サッカーも、(日本では規模は小さくなるけど)同じだ。こんなメジャー競技には、当然ながらお金が集まる。集まったお金は分配され、選手への年俸という形にもなるし、また次代を担う選手を探し出すためのさまざまな活動にも使うことができる。そして億単位の契約金を積み上げたりするから、社会の注目だって集めてしまう。マイナー競技にはお金が集まらない。ないものは分配のしようもなく、それだけで生活を支えられる人の確保はできないし、選手育成とか発掘とか、特別なことをする余裕もない。そして実業団選手が貰えるのは普通の社員の給料程度だし、指導者に至ってはまず手弁当だ。テレビ放映だって、4年に一度、しかもメダルをとった場合にのみ事後的に流される程度で、およそ社会の注目とは無縁だ。
 あるスポーツには、人・カネ・モノ・情報の全てが集中する。一方で、その全てにおいて貧困にあえぐスポーツもある。前者が栄え、後者が廃れる。これは自然なことだ。そしてエリートアカデミーにどうも釈然としないのは、その自然さに対する抵抗としか思えないからだ。
 対象になる競技だけど、レスリングと卓球、そしてフェンシング、高飛び込み、ライフル射撃の5競技だという。
 前二者はいいだろう。そもそも卓球なんて、本当はメジャースポーツだ。昭和の時代から絶大な人気を誇ってきた競技で、どんな中学・高校にだって卓球部くらいあり、幅広い選手層・指導者層を構成している。一方で、子供から老人まで趣味的なプレイヤーも多く、人気の高いドゥ・スポーツでもある。レスリングはそれほどのものじゃないけど、まあ日本においてはポピュラーだ。だいたい日本人は格闘技が大好き。ショースポーツとして一時代を築いたプロレスの母体になる競技ってことで、これも一応国民的競技と認められるだろう。
 これらは本来はメジャーたるべき競技なのだから、何らかの理由で今マイナー競技化してしまっているのなら、拡大再生産のための新たな取り組みを始めるにあたって、とりあえず国民的合意を前提視してもそう間違っているわけじゃない。
 だけど、他の3つは? なんか便乗してるんじゃないかって感じがする。
  「え、卓球とレスリングがそういうの始めるの?
   じゃ、オレたちも混ぜてよ。
   いいじゃん、同じオリンピック種目なんだからさぁ」
 それとも、オリンピック種目だから、保護されるのが当然と思ってるのかな。あるいは基本的に「どの競技も対等たるべし」とか思っているんだろうか。もちろん競技の間に優劣はない。それはぼくたち個人が一市民として皆平等であるのと同じ。山田も三木谷もゲイツも、みんな地球上の一市民として平等。でも、少なくとも経済的には対等じゃない。ぼくが週12コマの授業を一ヶ月間やって貰う給料の何倍もの額を、彼らは1回の講演で受け取ることになる。
 先述の“自然さ”だけど、こういうのに悪しざまに「市場原理」という言葉を使う向きがある。だけど、市場以外に公正な判断基準はない。国会で議決する? 国民投票にかける? でも、どちらをとったとしても、今現実に人気の高い競技しか、上位には入れないだろう。
 当事者は、自分たちに説明責任があることを、もっと自覚すべきだ。



 何度か書いてるうちに、だんだん危険領域に近づいてきてしまった。
 ずいぶん前だけど、若い女子ゴルファーがブログでこんなことを書いて炎上したことがある。
  「バレーとか、上(=プロ)がないスポーツの子って、
   よくやってられるって思う」
 発言そのままじゃないけど、まあこんな感じの内容だ。本人は、呆れてるんじゃなくて感心してるんだって思いで書いたとか釈明してたけど、ちょっと厳しいかな。やっぱりこれはポロッと本音がこぼれてしまったんじゃないだろうか。
 今回ぼくが話題にしている競技は、バレーに比べると格段にマイナーだ。といっても当然それ相応の競技人口はあるわけで、話題としての取り扱いには注意しないといけないのだろう。でもこのへんは、はっきりとした個人の意見だ。あえて堂々と書いてしまおう。
 ぼくが特におかしいと思っているのが、ライフル射撃だ。
 関係者にいわせると、これがいちばん必要性が高いのだという。この競技、日本全体の銃規制の厳しさから、そもそも一般人が競技を始めること自体が難しい。だから、高校で射撃部に入ってエアライフル始めた子というのがことのほか貴重。ただジュニア選手の場合、火薬使う銃の保有の年齢規制から、そもそも練習すらおぼつかない。なので特別な環境に入れてあげないといけないのだという。
 だけど、ちょっと待ってよって感じだ。だいたい射撃部のある高校なんて、全国にどれだけあるのか。今調べてみたら、愛知県でも3校しかないようだ。愛知県だよ、人口700万以上のメジャーな県でこう。そこに入った子だけが選抜対象になるというのは、まず公平性の問題としておかしいだろう。
 加えて、根本的な問題がある。
 あえていおう。そもそも射撃は競技スポーツとして存在すべき種目なんだろうか。
 ぼくはミリタリー系にけっこう理解のある方だし、自分自身武器とか銃とか嫌いじゃない。でも、オリンピックにそれがなければならない必要性がわからない。ましてや、銃の所持が厳格に禁止されているこの国で、わざわざ隔離されたエリアまでこしらえて競技者を育成し続けなきゃいけない理由が、どこにあるんだろうか。
  「わが国では狩猟以外の銃火器個人保有の禁止が国是ですから、
   ライフル射撃競技の団体は認定しませんし、
   オリンピックにも選手は派遣しません」
 で、いいじゃないかと思う。実際には競技連盟があり、国体種目としても存在している(そのため各都道府県には必ず射撃場がある)けど、やっぱりそれはおかしいのだ。



 スポーツ性ということで、若干補足したい。
 競技スポーツとしての射撃の存続について、前回ぼくは否定的なことを書いた。でも念のために言っておくと、射撃のスポーツ性そのものは理解しているのだ。でも、それと現行の競技システムを温存することとは、話が別だ。
 射撃のスポーツ性は、別段競技団体が定めたルールでしか満たせないものじゃない。正直、6ミリのBB弾でも十分だよね。これ使っている分には、アメリカタイプのスポーツシューティング(=ハンドガン使って複数のメタルターゲットを撃つ、スピード競技)だってできるし、直接撃ちあう団体戦だってできる。
 一方、正式な競技としての射撃はどうか。オリンピックルールのライフル射撃はあまりに様式化していて、ぼくにはスポーツ性を感じることができない。あれはむしろ芸道だ。“お作法”を忠実に守ることだけが要求され、近代スポーツに不可欠なイノベーションという要素を、全く持っていないからだ。
 さらに言えば、“お道具”という点でも芸道的だね。ライフル射撃には、専用の服装が決まっている。クソ重く作ってあるコートで、これで体の微細動を消すという目的がある。また、銃も、規定に合ったものなら何でもいいというわけじゃなく、競技団体が公認した銃の中から選ばなければならない。狩猟用の空気銃は数万円で買えるけど、そっちだと二十万以上だ。
 実際、エアガン使った射撃競技へのエントリーというのは、ぜったい悪くない選択肢だと思うんですよ。優秀な銃が安価に手に入るし、だんぜん安全だし。自宅でも公園でも練習できるよね(BB弾は拾おうね)。それに選手層の充実だって期待できる。「連盟に競技者登録したら、18禁のエアガンも購入できるんだよ」なんてのは、少年たちに対してとてもいいインセンティブになる。そして確立された競技性を元に、世界を動かしてしまえばいいのだ。なのに現実の競技団体は、それをしない。しないどころか、ビームライフルなんてものまでわざわざこしらえ、「入門するだけで何十万円」路線を崩そうとしない。



 思いのほか長く続けてしまった。
 あらためてシリーズ第1回の記事をよみかえしてみたら、「気になってるのは、とりあえず名前の無神経さについて」なんて書いてる。いやいや、実際はそんなに単純じゃなかったですね。
 大人になって思うのは、スポーツの楽しさ。全くこんなに楽しいことの楽しさを全く伝えてこなかった、ぼくが出会ってきた体育教師どもは、揃いも揃って大タワケだわいなんて思う。どうも体育関係者の間には、勘違いがあるのではないだろうか。
  「スポーツは、優れた肉体そして
   苦しさを乗り越える精神力を養うために行うものであり、
   楽しむなんてもっての外である」
 だから、あんなに楽しいことを「苦痛を与える」という方向にしか伝えられないのだ。そんな体育教育のピラミッドの頂点の方にいるのが競技連盟。そして彼らが作ったのが、先だってから話題にしているエリートアカデミーだ。
 そこでひとつ、勘違いの可能性を指摘しておきたい。
 体育関係者が好む言葉に「若い人に夢を与える」なんてのがある。今話題にしている局面でも、よく聞かれる言葉だ。
 だけど、早期育成というのは、方法論として間違っていないだろうか。むしろ夢を摘み取る効果をもたらしてしまうように思う。キッズ年代に選抜されなかったら、もうそれは「諦めなさい」ってことなんじゃないのかな。
 例えば野球の場合、競技自体はキッズ年代から存在しているけど、プロになれるかどうかは基本的に高校の時点で決まる。夢見る田舎の野球少年が県で随一の強豪校に飛び込み、実力でレギュラーの座をもぎ取るなんてことは可能だし、その先にはプロだってある。さらに言えば、中学で野球少年である必要すらない。高校から野球を始めても、力を発揮できれば同じことだ。そういう人が現実のプロ界にいるのかどうかは知らない。イチローだって、子供の頃にはもう全国的に注目されていたらしいしね。だけど、そこに可能性があるということが大事なのだ。早期育成システムをとっていたら、そうはならない。
 その意味で、卓球はやめといた方がいいんじゃないの、と思う。何しろ、全国に数え切れないほどの競技団体を抱える、裾野の広いスポーツなんだから。重要なのは、頂点にプロシリーズを持ってくることだろう。実業団や学連の連中に何を言われようと、サッカーの川淵さんのように一歩も引けを取らず、プロ登録した選手しか出られないチャンピオンシリーズを創設するとかね。これはもちろん年齢制限付きで。だいたい「小学生が全日本選手権の決勝に!」なんてのは、注目にしても悪い意味だと思う。その程度の競技かって思われてるだけだよ。 
 金メダルなんて、プロスポーツとして成功したら、勝手に付いてくるって。