ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

Mr.サマータイム(6)

 9月になってしまった。サマータイムの話を書いているうちに、だんだんサマーが終わってくるのも皮肉なものだ。実際、暑くない日が続いてるし。

 ところでサマータイム、この呼び方が、現実にはかなり欺瞞臭い。導入されている国の実際の運用を見ると、名前倒れもいいところなのだ。というのも、夏限定じゃないから。

 例えばアメリカの場合、3月から11月までなんだそうだ。これを夏って呼ぶんなら、老人以外は全員若手ってことでもいいんじゃないか? それってむしろ「非ウィンタータイム」なんじゃないだろうか。

 だいたい、サマータイムというのは、本来「臨時時間割」だよね。1年のうち9ヶ月間もやっといて臨時はないよね。これじゃ、一年中「本日特売!」なんて看板出してるスーパーみたいじゃないか。

 政治家が出してくるサマータイム導入の理由には、「諸外国との協調」なんてのもまじってたりする。となると、こういう不合理さも同時に受け入れなければならないことになる。ぼくの志向していたような「季節感を楽しむニッポン」路線とは、あまりに違ってしまう。


 『道具は使うべし、使われるべからず』―なんて格言は読んだことないけど、どこかに書いてありそうだ。そういう警告をしなければならないほど、ぼくたちはつい道具に振り回されてしまう。

 もちろん、道具によってその対象が定義されるという側面はある。例えば、文章。思考とコミュニケーションのための道具なんだけど、同時にそれらを規定する基準にもなるよね。ぼくたちは、感情を表現するために、言葉を使う。新しい言葉を憶えることで、新しい感情を理解できるようになる。「はじらう」とか「はにかむ」とか、ね。幼児の頃にはこんな言葉知らなかった。そして言葉を知ったことで、この種の感情が自分の脳の中に蓄積されたわけだ。でも、だからといって、感情よりも先に言葉があるわけじゃない。そして、言葉を操れるサムシングの中に感情が存在しているなんてことにもならない。犬や猫は言葉を知らないけど、パソコンよりも確実に感情を持っている。

 で、サマータイム。時計もカレンダーも、しょせんは道具だ。だから、人の便利さにあわせて変えてしまえばいい。それが道具というものの使い方だ。でも、その結果新たな物神が定義されてしまうようなら、まっぴらごめんだ。