ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

それでも夏休み

 8月が終わった。
 小中高校の場合、これは夏休みの終わりを意味する。専門学校はもう少し長い。だけど終盤突入で、気分的にはもう終り感が強いといえる。
 教員は学生ほどには休めないけど、社会人一般の中ではだんぜん休みが長い。基本的には土日休みの振り替え(専門学校はオープンキャンパスが多いのだ)+有給消化なんだけど、8月なんて“週休5日制”みたいな感じになってしまう。
 最初、これが苦痛だった。東京にいたときも教員をしていたけど、株式会社が経営している学校だったから、ふつうに会社員的な夏を過ごしていた。だから、はじめて名古屋で「認可校教員としての夏」を過ごしたときは、ほとんど呆然とするしかない状態になってしまったのだ。定年になってボケる人の話が分かったと思ったものだ。
 それでも、そんな生活ももう10年以上となり、すっかり身に染み付いてしまった。
 これは単に「休んでいてもへっちゃら」ということじゃない。休みの期間でも、ちゃんと過ごせるということ、そして終わりには元に戻るということだ。前にこのブログで書いた「早く目が覚めて困る」現象も、ここ二三日でなおってしまった。
 こういう体質になると、それはそれで定年後に困るのかもしれないね。



 人の欲求は合理的な理由付けができるものだけで構成されているというわけにはいかないもの。ぼくの場合、だいたい夏になると、こんな「したいッ!」がむずむずと頭をもたげてくる。
  その1:沖で釣りをしたいッ!
  その2:海で泳ぎたいッ!
  その3:でかいバイクで遠出したいッ!
 実際のところ、とっても不合理な欲求なのだ。まず、1番。真夏はあまり釣れる季節じゃなく、がんばってもボウズ食らうことが多い。その上、炎天下の船上なんて、暑くてたまんない。そして、暑さという点では、3番も同じだ。バイクにエアコンはなく、ライダーを冷やすのはただ風だけ。でも、エンジンすら熱ダレしてしまう気温の中走ったって、涼しくなるはずなんてないよね。加えてそのエンジンの放熱たるや、もうストーブとおんなじ。それをわざわざ抱きかかえるようにして走るのが、バイクってやつだ。2番は、季節的にはまともなんだけど、「いい年した大人が一人で行く」場所として、海水浴場というのはかなりアウトな場所だ。
 でも、そんな冷静な判断ができないからこその不合理な欲求なのだ。去年は、夏休みが近づく頃からこれが強くなり、順にこなしているうちに「夏もたけなわ」になってしまった。今年はどれもやっていない。欲求自体は実はないでもないんだけど、阻害要因に対する冷静さもあって、結局しないまま8月が終わってしまった。
 まあ、(2番以外は)これからやればいいんだけど、夏にできなかったって点が、どうにも寂しいね。



 こういうこというと問題があるとは思うんだが、正直思っていることがある。夏休みというのをなくせないだろうか、ということだ。
 そもそも夏に学校が休みになった理由は、「暑くて、とても勉強にならないから」だったのだろう。でも、専門学校にはちゃんとエアコンぐらいある。
 現実問題として、与えられた任務に比して、期間はあまりに短い。任務というのは、ずぶの素人を「駆け出しのプロ」にするということだけど、期間はコースの年限しかないのだ。2年制の場合、たった2年。しかも、1年生の終わりに就活が始まってしまうから、実際には1年だ。これはのんきに夏休みなんかとってる場合じゃないよね。52週しかないうちの6週間だよ。1割引以上しちゃうってことになるんだよ。
 でもこの提案、誰からも、嫌がられるだろうね。
 学生にとって、半獣人に花園を踏み荒らされたようなものだろう。そして「夏は休む」をずっと続けてきた(特にベテランの)教員にしても、同じ思いを感じる人が少なくないだろうと思う。一方、学校経営者にとっても、実は魅力的な提案じゃない。同じ年間休日を維持しようと思ったら、増員が避けられないからだ。
 実際、学生募集において致命的だってのがある。「本校には夏休みはありませんッ!」なんてのは、入学生募集にあたってマイナス要因にしかならないだろうし。
 だけど、誰かが言わなくちゃいけないよね。「王様は裸だ」って。まあ、こんなブログに書いたところで、どっちかっていうと「王様の耳はロバの耳」なんて言ってるのと変わらないんだけど。



 夏休み廃止論、実際にはどの程度進んでるのか(=本気でそう考え推進しようとしている人がどれだけいるのか)は知らない。でも、たぶんいつかはそうなるんじゃないかと思う。
 始まるとしたら、小中学校からだろうか。だいたいメディアで拾える親の声なんて、夏休みが終わるとほっとするとか、子供が勉強しなくて困るとか、そんなのばっかりだ。学校や教師というのはいくら批判しても構わないような風潮になっているから、彼らのぶうたれが正当化された圧力となって小中学校を襲う日も、時間の問題のように思える。
 ただ、学期そのものの仕組みが今のままで、ただ夏休みがなくなるだけというのは今ひとついただけない。そもそも「夏だからといって特別視する必要がなくなった」という、戦略的事情の変化があるのだ。それを「夏も授業」なんて戦術的対応だけしていたのでは、片手落ちだ。
 抜本的なことを言うと、学校というのを「均等3学期制」にすればいいと思う。
 4〜7月の春学期、8〜11月の秋学期、そして12〜3月の冬学期だ。そして各学期の始まり2週間を休みにする。といっても、機械的にそうすると慣習的な休み期間とずれるので、ここは修正。春学期の終わりは1週間分ずらし、秋学期冒頭休みを8月の第2週と第3週にする。そして同じ理由から秋学期の終わりも3週間ずらし、12月最終週と1月第1週を冬学期冒頭休みにする。小学校から高校まで&専門学校は、春〜冬で1年度。大学は1学期分ずらし、秋学期から年度始めにする。これで、ちょっと前から議論に登っていた「大学の学期スタートのグローバル化」というテーマにも合わせることができる。


 1ヶ月という期間は、感覚的にはかなり長い。ただ、実際にやることがあると、あっという間に過ぎてしまう。その意味で、これが長いか短いかが、充実して過ごせたかどうかのバロメーターとも言える。今回は、ぼくにとっては短かった。勉強とランニングと執筆、この3テーマを追いかけるローテーションを組んで臨んだのだけど、それが定着してきたらあとはもう終わりがやってきてしまった、そんな感じだ。3つとも、何かの実績を挙げられたわけではないけど、まあやった以上、値打ちはあったのだろう。
 ただそういう年ばかりでもない。もう10年以上そんな夏を過ごしてきているけど、だらだらと長くなってしまった年も少なくない。でも教員だから「来年があるさ」なんて言っていられるわけで、学生だとそうはいかないのだ。
 こんなこと書きながら、同時に「つまらない時代になってしまったものだ」とも思う。
 日本の学生は、自発的に何かをすることが苦手だと言われている。課題発見力が乏しく、正解のある問題は解けても、正解がない問題に取り組むことができないのだという。その意味で、夏休みというのは本来好都合だ。「この期間に何をしたらいいのか」というあたりからすでに“探り→仮説モデル”に基づく課題発見学習になってるわけだしね。でも、学校がそういう悠長なこと言ってても、会社は採ってくれない。
 次の夏休みは、どんなことを考えるんだろうか。