ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

それはお金で買ったわけですよ

 およそ教師を職業としている―特に青年層以上の学生が相手の―者で、マイケル・サンデルを知らない者は、いないだろう。ハーバード大で、政治哲学や倫理学を教える教授。でもそんな肩書よりも、NHK『ハーバード白熱教室』の先生といえば、名前でわからない人にもわかるとおもう。
 ちゃんとした学者なので、著作もいろいろあるけど、一般人向け商品=書店の社会科学コーナーで平積みになっているのは、早川書房から出ている次の2冊だ。
  『これからの「正義」の話をしよう』
  『それをお金で買いますか』
 装丁から「白い方」「黒い方」と呼ばれている(いや、ぼくがそう呼んでいるだけだけど)2冊だけど、夏休み中、本棚の片付けをしていて、この黒い方がいつの間にか居座っているのを見つけた。(白い方は前から持っていた)
 妖精さんがこっそり入れておいたなんてはずもなく、自分が買わなければそこにもないわけで、買っておきながらころっと忘れてしまっていたということだろう。
 奥付を見ると、2012年5月になっている。つまり、もう2年以上、放置していたことになる。
 そこで、ぼくははっと気が付いた。
 世の中には同時期にこの本を買った人が何万人かいる。彼らの多くはそこで書かれている考え方や知識を取り入れ、自分の能力を向上させているということを、2年も前にやっていたわけだ。そんな中、同じお金を払ったぼくにとっては、ずっと本棚のおもしだ。
 こりゃ負けるよね。勝てるわけないよね。
 まあ、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。まだ学校が始まる前だったこともあり、気分的に余裕があった。集中して取り組み、一気に読み終えることができた。どうにか追いついたわけだ。



 『それをお金で買いますか?』が問いかけているもの、それはタイトルが示しているとおりだ。
 こんにち、あらゆるものが市場で取引されている。元々資本主義というのはそういう仕組だから、世界経済というゲームのルールがこれに統一された以上、そうなることも当然ともいえるだろう。だけど、グローバル化と情報化が進んだ結果、あきらかに商品として不適切そうなものまで、市場で取引されてしまっている。
 例に挙げられているものは多彩なのだけど、ほんの一例を挙げるとこんなものがある。
  ○国会の傍聴券
  ○アメリカ合衆国に永住する権利
  ○「相乗り専用車線」を、一人乗車で走る権利
  ○絶滅の危機にある動物をハンティングする権利
 さらには、様々な広告スペース。テレビ局は、アナウンサーが商品名を織り交ぜて実況することを広告として商品化する。野球場はスタジアムの命名権を売りに出す。そして貧乏な一市民は「自分の体に入れ墨で広告を入れるスペース」を売りに出したりしている。また、子供の命名権を売りに出そうとした夫婦の話も紹介されている。
 では、あらゆるものの商品化は、なぜいけないのだろうか。
 サンデルが用意した答え、それは「公正」と「腐敗」だ。
 人は金銭的な動機付けだけで何かをしたりしなかったりするわけではない。なのにそこに金銭的な報酬というものが入り込むとどうなるか。人は金銭が得られることで、無償での提供を嫌がるようになり、さらにはより高い価格を付けるものに売ろうとする。これが腐敗だ。そして、貧しい者の比率が非自発的理由によって増えていくことになるだろう。これが公正だ。
 これが守られることは、善悪という視点を忘れ、単に効率ということで考えた場合でも、大きな利得を持つ。例えば献血。これは売血=「お金で血液を売り買いする」を駆逐して導入された方式だ。その大きな目的は、血液の質だった。売血で得られる血液が質的に悪く、医療目的に支障が出てしまったのだ。そこで「いいことすると気持ちいいよね」という、非金銭的なインセンティブに切り替えることで「命を助けるための血を確保する」という当初目的の達成を図り、成功させたのだ。
 人間社会は、その多くの部分を道徳的な目的づけで成立させている。それをうまく動かすために重要なのは、社会自体が、公正さ・高潔さを保っていることだ。なのに経済学者は、それを直視しようとせず、「金銭的利益の最大化が、効率の最大化を生み出す」と信じてあらゆるものの商品化を肯定、無邪気な政策提言をする。本書のテーマはそれへの批判であり、同時に読者自身の持つ道徳性に対しての刺激でもある。自分自身が本質的に持っている「いいことすると気持ちいい」要素を、いろいろな醜悪な事例を通じて気づかせてくれるということだ。



 教室は舞台だ。一方的に教授が話すだけなら演劇一般とそんなに違いはないけど、白熱教室のような授業になると、偶発性が大きくなる。
 これに対し、本というのは、全てが仕組まれた世界となる。導入部に何を書き、どんな事例を並べるか、全ては著者の完全なコントロール下だ。当然それは読者の心をコントロールするために使われるわけで、その意味で、本というのは催眠商法みたいなものだといえるだろう。教室であれだけのことをやれてしまうサンデル先生だから、本となるとその催眠力たるや、相当なものになってしまう。
 この本を読むとき、警戒しなければならないことがある。「市場」の定義だ。
 市場原理という概念には、ふたつの意味がある。
  その1「何かを分配するにあたり、
      受け取るための対価をより多く提供できる側が、
      優先的に供給を受けることができる一般的システム」
  その2「商品を売買するにあたり、
      受け取るための代金をより多く支払える側が、
      優先的に購入することができる商取引上のシステム」
 1における市場原理、これは自然法則の一つだ。そもそも、需要に対し供給が限られている何かを有効に分配する方法は、原理的に限られている。早い者勝ちにするか、力の強弱で決着するか、どちらかだ。そして、市場原理というのは、この後者に対する解釈なのだ。一方で2は、その応用として人間が経済的営みの中で利用しているものに過ぎない。物に値段がつき、貨幣という形で交換が行われるという、原理的市場の中のたいへん限定された一応用事例にすぎない。
 で、サンデルの批判だが、2を例に挙げながら、1までまとめて斬り捨てているように読めてしまうのである。



 本書に例示されているわけではないけど、ぼくはトリアージのことを思い出した。大規模災害など、緊急性を要する患者が山ほど送り込まれてくる局面で用いられる、例外的な医療のスタイル。これもまた、上記1レベルでの市場原理の応用に他ならない。
 一応説明しておくと、これは治療の処理能力を超えるほどに大量に患者が存在する場合、その緊急度を判定し優先順位を付けるというものだ。運び込まれた患者に対し、トリアージ担当医師は4種類の色分けを行う。
   緑:ケガだけどたいしたことない
   黄:治療を要するけど命の心配はない
   赤:急いで治療しないと死ぬ
   黒:手遅れ。治療しても助からない
 治療の優先順位は赤から。そして、劣位的なのが黄色。緑と黒は治療しない。あらゆる患者を平等に治療するのが本来あるべき姿だけど、現実問題として医師の持ち時間は限られている。そこで、必要性の高いところから先にやり、やっても無駄なところは放置するのだ。ちなみに、色分けと治療は別の医師が担当する。
 この場合の色は、通貨の代わりだ。「医師による治療」という限られた資源を分配するにあたり、仮想的な対価を想定するわけだ。
 反対論もあるけど、緊急避難的意味で社会的に受け入れられているといえる。でも、これを元に、こんなこと言い出されたら、どうだろうか。
  「トリアージは市場原理の応用である。
   だから、治療優先順位に値段を付けて売ることは、合理性に叶っている。
   病院はこれを導入することで、財務を改善すべきだ」
 経済学者たちの無邪気な政策提言というのは、こういうものだ。言葉の多義性を利用した詭弁なのか、言葉の多様性に惑わされた誤謬なのかは知らないが。
 でもそれに反論するサンデルの主張も、これとそんなに違いないもののように、読めてしまうのだ。
  「トリアージという、医療システムがある。
   患者をあらかじめ選抜し、手遅れの患者は治療せず放置するというものだ。
   経済学者は、これを市場原理を応用した素晴らしい手法といっているが、
   病院経営という利益ばかりを重視する経済学の論理が
   医学に導入されてもいいのだろうか」
 まあ、このへんはサンデルへの批判というよりは、経済学者たちへの批判という意味なのだけれど。



 サンデル先生とくれば、もちろん白熱教室。なので、本の話ばかりではなく、そちらも話題にしてみよう。
 評判になってから、いろいろな教授によるバージョンが続々と番組化されてしまって、その存在が希釈化してしまっている感は否めない。ただ、本家のはやはり圧巻で、機会があったらぜひみておいて欲しい。
 これは、大教室でやる講義なんだけど、決して一方通行じゃない。
  「渋滞している高速道路の路肩走行だが、
   経済学者は“その権利を売買すればいい”と言っている。
   これについて、賛成する人は? 君か。名をなんという?」
  「ロバートです」
  「OK、ロバート。なぜ賛成できるんだろうか」
  「道路は財源を必要としています。
   裕福な人からそれを多くとることは、理にかなっています」
  「なるほど。では、このロバートの意見について、反対の人は?
   はい、そこの君。名前は?」
 こんな感じで壇上から学生に向けてどんどん問いかけをしていく。
 こういう授業をやりたいものだというのは、教員なら誰もが思うことだろう。実際にぼくも何度か導入しようとしたが、うまく行かなかった。結局、白熱教室になるはずだった教室はちっとも熱くならず、単に白けた教室になってしまうのがオチだったのだ。
 専門学校だから贅沢言えないか? なんて思ってたら、知り合いの大学の先生(結構著名なとこですよ)も同じようなことを言っていたので、まあ正直レベルの差はあるだろうけど、この国共通の問題なのだろう。
 なので最近はこのへんをほぼ諦め、「演劇的盛り上がりも考慮した熱い講義」と「全部学生にやらせる実習」とを交互にやっていくようにしている。つまり、教師と学生がそれぞれ白熱してればいいんだという妥協だ。



 白熱教室はなぜうまくいかないのか。
  1. まともに発言できる学生が少ない。
  2. その場合も、単に感想の類の表明に終わってしまう。
  3. 共通して身につけている知識の範囲が狭く、議論の前提を共有できない。
  4. 元々持っている思考ツールが不十分。
  5. 揺さぶりをかけられた時の反応が悪い。
 1が最初にして最大の問題だ。問いかけても、返事がないのだ。指名してもそのまま黙りこくって固まってしまう者が少なくない。仕方ないから、そういうフリーズしない人間にばかり指名が偏ることになるが、その場合に2以下の問題が現れる。
  「心理学者は“ゲームをやってると脳の反応がボケ老人と同じになる”と言っている。
   これについて、反対意見のある人は?」
  「……」
  「おい、みんな賛成なのか?」
  「……」
  「しょうがないな。田中。お前どう思う」
  「あ、はい。オレ、違うと思います」
  「なるほど。ではその根拠を言ってみてくれ」
  「……いえ、別に」
  「先生、ちょっといいですか?」
  「おう、佐藤か。お前どうだ」
  「今言ってたのって、ゲーム脳ですよね。
   あれ間違いなんでしょ。ネットで読みましたよ
   そもそも言い出した人って心理学者じゃないそうだし」
 総括すると、これは「論争力」が低いということだろう。
 論争するためには、話せないといけない。だけど、教室で自分の意見を言うということ自体が、少なからぬ学生にとって想定外になる。そして例外的に存在する「話しに自信ありッ!」の学生というのも、その自信はしばしば文芸的な局面で得られたものに過ぎない。「はきはきと発声できる」とか「情感を込めて伝えられる」とか、ようは「喋り」であって、論理性とは無縁だ。そして、どこかで拾ってきた結論がいきなり出てきて、その結論に対する感想あるいは賛否としてしか、授業の総括ができない。

 実戦で役立つ知的能力というものは「対話力、問題発見力、論考力、論証力」の4つだと言える。この核となるのが問題発見力。世の中には、問われたことに直接回答すればいいという場合は少なく、表面に現れた問いを元に、本当に問われていることは何なのかを見つけ出すことが要求される場合が多い。これに対応できないと「使えないやつ」という烙印を押されてしまう。
 ところが通常の学校教育では「問題に対して正解を述べよ」という形になる。特に専門学校なんてのは「資格とってナンボ」の学科が大半で、そういうのが学校自体のDNAとして根付いてしまっている。だから、そこでの価値観は「わかりやすい」(≒おぼえやすい)であり、教員に求められる技術は「発声がいい」「板書がきれい(で書き写しやすい)」となる。そして、最終的な正解を教えずに終わってしまうような授業は、犯人の書いてないミステリーと同じ、ということになってしまうのだ。これが専門学校や受験予備校だけの問題ならいいのだけど、実際には中学高校も変わらない。



 本家白熱教室がちゃんと白熱するのは、学生気質の違いというのが大きいだろう。
 ひとつ言えることがある。白熱教室の会場を埋める学生というのは、相当に鼻っ柱の強い連中だということだ。全米一の秀才を揃えたハーバード、自分の優秀さに絶大な自信を持っている。だから、相手が教授だからって、遠慮はしない。例えば物理とかだと、相手がエドワード・ウィッテンなら尊敬もするけど、大学に入って初めてその名を聞いた教授なんてのは、自分のほうが格上だと思っている。特に理科系の学生は、文科系の学問を軽視する傾向があり(これは日本でも同じだね)、単に本をたくさん読んでるだけのおっさんだとなめてかかっている。こういう小天狗どもの鼻っ柱をへし折ってやることが、サンデル先生には求められているわけだ。問いかけというのは、実は挑発でもある。
 日本ではどうか。いわゆる難関校というのは、いきなり受験して合格というわけには行かず、入学するためには、長期にわたる戦略をたてて挑まなければならない。だから、その過程で自分を客観視する癖がついてしまうんではないかと思う。たとえ東大生だとしても、それは「他の受験生よりは優秀だった」ということに過ぎず、そうした現実を自分自身客観的に見つめてきたような者ばかりで占められることになる。というわけで、俺様君タイプの存在というのは、あまり期待できそうにない。
 一方、クリエイターに話を限れば、実はしばしば観られる現象だ。これって、昔の文学青年でもあったでしょ? 読者ベースの視点で先人に序列を付け、自分のポジションをその平均的なところにおいた上で、カテゴリー全体に大物/小物の区分を付けるなんてね。まあそういう未熟さが青年層の持ち味でもあるんだけど、今でもそういうのはあるわけだ。ゲームの場合だと、小島・辻本・桜井といったあたりが尊敬すべき先人で、たまにファミ通に出てくる程度のクリエイターというのは、もう小物。上から目線で論じたりする。そして、ヒットチャートに上りもしない程度のゲーム作ってる人なんてのは、完全に見下している。
  「あなたはたまたまゲーム会社にいたから、作れただけですよね。
   ぼくなら、もっとよくやってみせますよ」
 こんな連中にとって、教師というのは、さらにもうひとつ下。しょせんは「第一線にいられなくなったクリエイター」にすぎない。尊敬していないんだね。
  「ゲームを構想する力なんてのは教えてもらう必要ありません。
   企画書の書き方とか、そういうのだけ教えてくれればいいんです」
 全国区だったバンタンには、こういう学生もいた。そしてサンデル先生と同じ役割を担っていたのばぼくだった。この緊張感は、悪くなかったね。居心地いいとは言えないけど。まあ、今は知らないよ。もう10年以上も昔の話だ。
 この点で、名古屋は、どうもいけない。できのいい連中というのがみんな素直で明朗。へし折ってやるべき高い鼻を持ってる小僧が、なかなかいない。やはり“工都”として、エンジニアや工場労働者の育成を中心に据えているからだろうか。それとも、小天狗ちゃんたちはみんな上京してしまうのかな。



 今「市場原理」という言葉は、悪しざまに使われる場合が多い。そして、経済学者は、その万能性を信じてどんなことにも応用を主張する存在としてイメージされる。だが、結果として間抜けな結論をもたらすことが多く、その結論への反発が、経済学への不信にもつながる。
 だけど、これには警鐘を鳴らしたい。だいたい科学的思考というのは極論を使って展開されるものだ。極論さを嫌っていたのでは、科学的思考自体もできなくなってしまう。そして「経済学なんて、意味ないじゃーん!」なんて決めつけを勇気づけることにもなる。それは社会の仕組みを考えるにあたっての非常に有益なツールを放棄することを意味してしまう。なんでも経験則や雰囲気だけで決めてしまうことが、ベターであるはずがない。

 突き詰めて考えると、「経済とはなにか」という問題になってくる。
 まず言えること。経済は自然現象だということだ。
 市場原理という概念、これは文字通り「原理」で、自然を支配する法則の一つだ。例えば鮭狩り場を奪い合うクマなら「暴力」が対価になる。より多くの暴力をつぎ込んだ方が、いい狩り場を獲得できる。一方、鳥の繁殖競争では、メスの気を引くようことが対価になることが多い。快適な巣だったり、美しい鳴き声、それに踊りなどだ。個体同士が競い合い、それを獲得するわけだ。
 こういうことを最も巧妙にハンドリングしている学問が、経済学であることは間違いない。科学一般の方法論として、現象を観察し、抽象化する。そして原因を推測し、仮説を立て、立証する。抽象化にあたってはいくつかの前提を置き、その中には「経済人モデル」のような、早とちりな人が眉をひそめるようなものもあるが、思考のために活用すべき洗練されたツールにすぎない。
 実際、いろいろな分野で、経済学の知見はたいへん役に立っている。例えばAIのアルゴリズムなんてのがそうだし、またコンピュータの回路設計やデータ通信など、情報工学分野でもすでに応用されている。それと同じで、病院の予約システムを構築するとき、需要と供給から最適解を導いていく経済学の原理はたぶん役に立つ。でも、だからといってそこで円やドルがやりとりされるわけではないのは当然だ(用語上『通貨』という言葉は使うこともあるが)。クマやフウチョウがお金のやりとりをしていないのと同じことだ。

 現実の経済の営みは、人間社会によって成り立っている。だけど、人工の環境だからといって、自然法則が適用されないわけじゃない。
 価格が決定していく仕組みにしても、それは自然現象なのだ。「人が作ったものだ」は事実でも、「だから人が完全にコントロールできるはずだ」は妄想にすぎない。なのに、それができるように思い込んでるから、さまざまな間違った結論が導かれてしまう。


 前にも書いた東京マラソン、先日、競争率が発表された。10倍以上ということで、まあ基本的にそんなものだからもう驚かないが、凄い数字だ。「十中八九」なんて言葉があるけど、出られない率はそれ以上ってことになる。でも、確実に出走する方法がある。別途10万円払って「チャリティランナー」枠にエントリーするというものだ。一般の応募は8月末で閉めきっているが、こちらは定員を満たすまで、最終的には11月末までが受付期間になる。倍率が発表された現時点でも申し込めるし、もし定員に空きがあれば、落選が決まってからでも間に合うかもしれないっていうタイミングだ。
 豊富な事例の引用が圧巻な『それをお金で買いますか』だけど、基本的にアメリカの例が挙げられているから、読んでると「アメリカってひでえな」なんて思ってしまう。でも、このグローバル化の時代、そんな遠い国の話のままであるはずがない。少し考えて見れば、この他にも、いろいろと「お金で優先権を買う」例を見つけられるだろう。大阪のユニバーサルスタジオ・ジャパンでは「エクスプレスパス」という“並ばずに乗れる券”が臆面もない価格で売られている。さらにいえば、伝統的な特急電車も高速道路も、そういうシステムだと言えるだろう。
 とはいえ、「お金で買う」は、そんなに悪いことなのだろうか。
 これはリベラルな民主主義とともに発展してきた。今ぼくたちは、お金さえ払えばファーストクラスで旅ができるし、ホテル・リッツにだって泊まることができる。「あなた平民でしょ」なんて理由で断られることはない。封建制を引きずった時代とは違うのだ。
 でも、リベラルさは誰にだって平等だ。10万円という額は、高いだろうか。多くの一般人にとっては、信じられないくらい高価だろう。でも、熱心なランナーは本気度が違う。わざわざハワイまで行って走る人もいるくらいで、それに比べれば現実に安いものだ。となると、チャリティー枠があっという間に埋まってしまうことだって考えられるし、そうなると今は全体の1割ぐらいしかない枠を拡大していく動機付けにもなるだろう。通常の出走料を払うのがやっとという貧乏ランナーにとっては、さらに倍率が厳しくなるわけだ。「平等」は、こうして「公平」と矛盾するようになる。




 民主主義というのは、人間性の解放でもある。「うまいものが食いたい」とか「かっこいい服を着たい」とか、人はいろいろな欲望を持っている。昔から、多くの文化は、それを抑圧してきた。宗教家はそれを罪だと言い、権力者は身分制と結びつけた。それが市民革命で打倒された結果、今の世界のあり方がある。ぼくたちは、かつては王侯貴族にしか許されなかった生活を、どうどうと楽しむことができる。お金さえ、払えれば。
 しかし、これによって提供される“豊かさ”に、問題はないのか…そのような問題意識―もっと言えば、そういう次元で問題を捉えるべきだとする価値観―が、サンデルの主張の根っこの部分にはあるのではないだろうか。人は、人として自由でなければならない。それは制度として肯定する。でも、肯定した時点で問題が終わるわけではない。新たに発生した問題は、新たな視点で直面していかなければならないのだ。なのに、一部の経済学者は、問題を取り違える。本来論じるべき次元よりも低いレベルでの問題にすり替えた上で、無邪気な結論を導き、脳天気な政策論を提案する。それへの苛立ちというのが、迫力ある筆致から、感じられる。
 経済学は、基本的に数量化可能なものだけを扱う。質的なものも、技巧を駆使して数量化した上で対象にする。だから、愛も正義も友情も、数値化されて組み込まれ、効率化の計算の対象にされることになる。ただ、そういう時に使う数値は、あくまでもそういうための数値なのだ。共通性は、同じ「数値」という抽象概念を使っているというだけのこと。
「金銭と同じ概念を使うなどもってのほか!」
 なんて批判は、本来なら的外れもいいとこだ。まあ、実際に経済学者が置き換えて論じるから、しかたないのだけど。



 実際に人を動かしているインセンティブとして、実は金銭的報酬というのは、そう大きなものではないように思う。代わりに感じるのが、集団への帰属意識。人は社会性を持つ生き物として、何らかの集団に属している。そして、そういう動機付けに基づく行動が、非金銭的インセンティブとして大きいと思うのだ。
 『それをお金で買いますか』には、広告スペースを売り買いする話題が出てくる。だけど、スポンサー料を貰ってるわけでもないのに“紗音流”とか“美頓”とか子供に名付ける親もいる。ハイラックスの荷台につく「TOYOTA」のでかい文字、あれは日本ではオプションで、わざわざ追加料金を払ってくっつける。持ち物にアップルのステッカーを貼ってる者は多いが、別にスポンサー料をもらってるわけではない。みんな、これで考えると理解できる。それぞれが主観的に属しているバーチャルコミュニティの中で、自己のプレゼンスを主張するためだ。
 非金銭的インセンティブを「無償の奉仕」なんて考えるから重くなる。報酬がなくても仕事をするというのは、別に道徳心が強いわけではないし、滅私の精神を持っているわけでもない。そして、こういったインセンティブは数値化できるし、それを市場原理のもとで分析して最適解を探すことだってできる。「そんなの、金儲けの連中と同じやり方じゃないか!」なんて理由で拒むのは、原理主義にすぎるだろう。

 論点をずらしつつ、ずいぶん長く展開してしまった。授業の話をしたいのか、それとも本なのか。実はどちらでも本命ではなく、今カテゴリー名を選ぶのなら、経済学に関連した何かだろう。でも、ここから何回か使っても、うまくまとめることは難しい。このへんで終わりにしよう。
 シリーズの終わりの方は、地上30階建てのお台場のホテルで書いた。これ、実はゲームショウの学生引率で泊まっている。昔のような「修学旅行の宿」はなくなってしまい、大規模な団体旅行では、でかいホテルしか選択肢がないのだ。で、その中で、こんな格差社会を象徴するような場所を宿舎にできるのは、うちの学校が生態系の上のほうにいるから……では決してなく、ホールセールの効果にすぎない。実際、個人旅行で泊まった場合の1泊分で、ツアー総費用をもう超えてしまうほどの違いがある。
 不平等さというのは、こんなところにも転がってるわけだね。