ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

車上にて


 北米に、グレイハウンドバスというものがある。あの広いアメリカを結ぶ長距離バスで、小説なんかでおなじみだ。田舎の青年が都会で一旗揚げようと旅立つときとか、「彼はボストンバッグ一つ抱えて、ニューヨーク行きのグレイハウンドに乗った」なんて表現されたりしていた。
 青年時代、これを使って北米を横断するなんて旅に憧れていたものだ。でももし実際にやったら、死ぬほど退屈するんだろう。現実のぼくは、東京までのバスでうんざりしている。
 誤算だったのが、WiMAX。移動中に時間を持て余すことはわかりきっていたから、フルに充電したiPadを持ち込んだ。携帯デバイスは人類が作り出した最高の暇つぶし道具だ。だけど、インターネットに繋がっていないと、全くその力を発揮できない。旅に出たことで、ふだんは感じていなかったWiMAXの無力さが、残酷なほどに明らかになってしまう。名古屋市から出るかどうかの時点でもう繋がりにくくなり、三河に入った頃には完全に無力化してしまった。次に繋がったのは厚木で、結局、工程のほとんど大半を喪失してしまったのだ。通信キャリアは人口カバー率90何パーセントなんて言っているけど、あれは「人間は移動しない」という前提に基づいてるね。
 だったら本でも読めばいいようなものだけど、これができない。バスの旅がいけるかだめかは、人によって違うんだろう。三半規管が頑丈な人ならだいじょうぶ。ぼくは怪しい。ここ何年か、釣り船以外では乗り物酔いをしたことがないけど、強くなったというよりは、回避方法を憶えたという方が近い。そして「バスでは本を読まない」は、その最優先事項。結局、車窓からの風景をひたすら眺めている感じになる。でも、新東名のは、とても退屈だ。



 新東名は、険しい山地を無造作な線で貫いて作ってある道だ。山があるところには谷もあり、大きな切り通しと高い橋が交互に続くような感じになる。切り通しの内側では、視界も限られる。でも、ところどころ印象的な場所もある。  ぼくにとって重要な場所が、東名の近くにある。静岡の近くから見える山だ。お椀を伏せたような形で、かなりの急斜面になる山腹にへばりつくようにして、林道だか農道だかわからないのが麓から山頂まで伸びている。
 たぶんそれはなんでもない風景なんだろう。きっと静岡の人に聞いても、どの山のことを言ってるのかわからないほどに。だけど、ぼくにとっては、重要ランドマークだった。上京したのは二十歳の頃で、前年に買ったマツダ・ファミリアと一緒だ。その後、何度となく東名を走り、その都度それを見上げてきた。
 これがただの山なら、なんてこともなかっただろう。だけど、そこには道があった。
「走ってみたい」
 その気持ちが、その山への思いとなった。
 東京ぐらしは20年ほど続き、幾度と無くその山を眺め続けた。でも、いまだ立ち寄ったことはない。思い出というのは思い出のままで残しておくべきだ……なんて美的な理由じゃない。どこなのか、わからないからだ。東名から直接アプローチできるのならともかく、実際にはいったん下の道に降りないといけない。でも、そうなるとどこなのかわからなくなってしまう。
 実際には、いっぺんやってみればいいのだ。迷っても、その経験が次回の成功につながるのだから。だけど、できなかった。場所が場所だから。帰省なのか帰京なのか、どちらにしても気持ちは目的地へと向かっている。そのちょうどど真ん中部分に、それはある。いつか立ち寄るときもくるさ、なんて思いながら、気がついたら30年にもなってきている



 今回、目についたもの、それは高速道路をまたぐ橋だ。
 元々高速の切り通しには、そういうものが多い。だけど、78キロポスト付近にあるこれらはかなり特徴的だ。どれも斜度がすごいのだ。仮にスキー場でここを直滑降しろと言われたら勇気がいるぐらい。自転車じゃ絶対登りたくなく、バイクでもスクーターなら遠慮したくなる感じ。
 かつてぼくが感じたのと同じように、誰かがこの橋をランドマークにするのかもしれない。
「わたってみたい」
 なんて思い、気にしながらも何十年も通過、なんてことになるのかもしれない。思い出というのは、一緒にその場にいない限り共有できないが、思い出のスキームなら、時代が変わって同じだ。



 目の前に、富士山がある。単調な眺めの中の、唯一ハイライトともいうべき区間だ。
 東名からなら何度となく見ている。でも、この新東名から見る富士山はまた格別だ。距離的にはどれほども違っていないはずなのに、雄大さとか迫力とか、だんぜん違って見える。
 まあ、カメラでも一歩足を踏み出しただけで新鮮な写真が撮れるときもあるし、釣りだって、一歩横に移動しただけで釣れたり釣れなかったりが違ってきたりもするから、きっとそういうものなんだろう。それまでの単調な風景が、感動の伏線になってるのかも知れないし。
 あらためて、富士山のすごさを考えてみる。
 まず、日本一だということ。次に単独峰だからということ。さらに、身近だということ。その巨大さを感じられるすぐ近くまで、特別な機会でなくても(単なる東京出張でも)行くことができる。こういう山は、他にはない。日本で二番の、南アルプス北岳なんて、連なってる周囲の山に紛れ込んでいて、見てそれだとわかる人間の方が稀だろう。そもそも、見たことのある人間すら少数派だと思う。
 そして重要なのが、登れることだ。
 モノには、ふさわしい「接し方」がある。万年筆なら書いてみるべきだし、少なくとも手にとってみないとわからない。装飾品なら、身につけてみることだろう。そして土地というのは、そこに足を踏み込めることなのだ。
 自動車博物館が今ひとつ物足りないのは、コクピットに座れないからだと思う。運転するのは無理でも、せめて運転席に座ってみないと、   
 山の場合、それは昇ってみることだ。そして、土地には「そこにいけないと不満が残るスポット」というのがあり、山の場合はそれがてっぺんなのだ。
 そういう意味においても素晴らしい山、富士山。でも、そのせいで大変なことになっている。守るためには立ち入れないようにすべきだとは思うんだが、ぼくたちはとても大事なものを喪うことにもなってしまうだろう。



 富士山が山の陰に隠れ、もう一度見えてくると、新東名は終わる。
 ここまでの道のり、期せずしてリスニング時間となってしまった。
 Webブラウズという用途が封止されてしまったiPad。「地図を眺める」なんてのも、オフラインに追い込まれた以上、無理。そこでやってみたのが「音楽を聴く」という機能だ。考えてみると、iPadのDNAみたいなものだろう。ハードディスク搭載の音楽プレイヤーであるiPodから、iPhone/iPadの全ては始まっている。
 ただ、ぼく自身には歩きながら音楽を聴く習慣はなく、イヤフォンも、電車の中での社会的ノイズ(おばさんの世間話とか、ねじ緩んだ人の電波な独り言とか)をシャットアウトするだけのために使う。そういうのに遭遇する確率は低いし、そもそも電車通勤をしていたわけではないから、分母の時点でも小さい。なので、この機能も余り使ってこなかった。今回「アーティスト内シャッフル」というのができることを知り、やってみた。
 選んだアーティストは松田聖子さん。若者だった頃、ぼくはどっぷりと入れ込んでいた。iTuneには、CD6枚分の楽曲が入っている。LP盤を持ってるのにCDを買った最初のミュージシャンだ。
 聴いているうちに、若い頃の感情があれこれと噴き出してきてしまった。でもまあ、ここには書かない。おっさんの胸キュン話なんて、自分も含めて誰も読みたくないだろうから。
 ただ、こうも思う。作詞家はほとんど男で、プロデューサーはそれ以上だろう。となると、少年だった頃のぼくの胸をキュンキュン絞り込んだ乙女ゴコロは、全て男にとってのファンタジーなのだろうか。そこで歌われてる「私」はもしかしたらBL小説に出て来る「オレ」ぐらいにあり得ないのかもしれない。



 30年以上にわたって活動しているわけだが、持ってるCDは、その全てをカバーするほどではない。それでも、比較的初期の盤もある。年数とかは覚えてないんだが、ジャケット写真の髪型からわかる。そして何より違うのが、歌だ。歌唱力も声もぜんぜん違っている。味わいはあるんだけど、この歌、今の歌唱力で歌い直してくれないかななんて思う。
「アイドルはへたくそでいい」
 なんて決めつけの中でデビューし、技術的にもやはり上手とはいえなかった。それでよしとしていたら、今はない。常にあらゆる意味での高みを目指し続けた結果、悪名もあれば名声もあり、それを止揚した先に今がある。少年時代のぼくは、ひたすら好きだった。今は、そうしたプロとしてのあり方を、深く尊敬している。もし知り合う機会があっても、友だちにはなれないだろうけどね。
 ただ、やるなら早くしないとね。もうとっくに50代なんだし。歌手というのは、そういうリスクを背負ったミュージシャンだ。エレキギターの音が老化したら、ベンチャーズとかたいへんなことになってしまうんだが。まじめな話、そういうことを、ぼくは「千と千尋の神隠し」で思った。残念でもあり残酷でもあるんだけど、音楽は常にいい楽器を必要とするのだ。「おばあちゃんの声で歌われた方が感動する」なんてことはない。
 娘に期待?  それもありかもしれない。“アナ雪”には、率直に感動した。あれを観て(聴いて)「七光り」だなんて言うやつ、もういないだろう。吹っ切れてほしい。



 暇つぶしライティングのフィニッシュは、神奈川県内だ。
 海老名のサービスエリアの中では繋がっていたWiMAXだけど、本線に出るとまた元どおりになってしまった。高速道路というのは、郊外においても人口密集地は通さない。でも、都心に近づけば話は別だ。人口が密集していないところがないから。道路がWiMAXの領域に入り込んでいき、砧公園に隣接するゴルフ練習場の鉄塔が見える頃には、インターネットから遮断された状態も終わることになる。
 数回にわたって書いてきた車中記。実際には、スタートから到着までのグロスで5時間半というところだから、暇をもてあましていた時間はせいぜい4時間程度なのだろう。でこの時間中ほんとうに何もやることがなかったのかというと、まあ読んでの通りで、そうでもないですね。この文章を書いていた。
 使ったのは、iPad。iOS8をインストールした直後の、Evernoteだ。iPad単体でのテキストライティングは、最初は「なんじゃ、こりゃ!」だった。Bluetoothのキーボードを買ったものの、PC兼用だったから使いづらいのなんのって。一応持ち歩くこともあるけど、あくまでもピンチヒッターだったのだ。でも、今回iPadでの直入力をやってみると、そんなに抵抗がない。もちろん物理キーボードのような体性快感は得られないけど、
Blackberryの「むりやりQWERTYキー」との二択だったら、ぜったいこっちを選ぶだろう。ただ慣れただけなのか、バージョンアップしたOSのおかげなのかは知らないが。
 考えてみると、暇つぶしの道具として、かつてのぼくは(紙の)ノートを持ち歩いていた。時間さえあればせっせと絵を書いていたのだ。キャラ絵だったり背景画だったりだが、時にはその場スケッチもするし、その時思いついたデザインを書き留めたりする。そして、単に絵だけではなくて構想なんかも書くようになり、やがてマンガのストーリーとか設定とかも書くようになった。大学を移ってからは、文章を書く比率が高まる。文学的だか哲学的だかわからないことを、ちまちまと書いていた。ゲームデザイナーとしての後の仕事につながるなんてことは、夢にも思わないままね。
 そういう用途に、今のiPadは、実は使える。でも、インターネットに繋がっていると、もっと刹那的かつ非創造的な暇つぶしにも便利に使えてしまう。次の時代に期待すると同時に不安にもならざるを得ないわけだ。