ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

無料ほど高価いものはない(5)

 ただこの自由、皮肉なことに、パソコンが最も普及度を上げた時期に、消滅しかけてしまった。Windows95あたりに始まる、怒涛の10年間だ。

 3.0でWindowsの時代が始まった頃、ワープロを中心とした日本のビジネスソフトは、各社がそれぞれに個性を持った製品で競い合う“百花繚乱”の状態だった。これがそのままWindows版に移ってくれれば良かったのだが、どの会社も様子見で、製品をさっぱり出してこない。Windowsネイティブのワープロマイクロソフトの高級品『Excel』の兄弟ソフトである『Word』(当時のバージョンは1.2a)しかなく、それを入れるか、DOS窓を使ってDOS版のままで使い続けるかしかなかった。

 ところが、3.1の発売と前後して、この状況が劇的に変わった。マイクロソフトの戦略ががらりと変わったのだ。高級品だった『Excel』『Word』を、あの手この手のキャンペーンで定価の1/3程度にまでディスカウントしはじめたのだ。

 さらに決定的だったのが、メーカー製PCへのプリインストール販売のスタートだった。狙いは、一般人へのパソコンの普及を進めることだったのだろう。

 実際、これは一気に実現した。「ソフトはおまけ、パソコン買えばすぐ使える」状態がサポートされたことで、「ワープロからパソコンに買い替え」の流れができ、ボーナスシーズンごとにパソコン普及率は高まっていった。そして、それまで大きな存在だった専用ワープロは急速に消滅、同時に、ようやく出始めた日本製ワープロソフトも市場から駆逐されてしまった。その結果、パソコンという装置はOfficeを動かすためのプラットフォームと化してしまった。

 パソコンの自由さは、市場の自由によって裏付けられていたといえる。今あるもの以上に良いソフトを出せば、取って代わることができるからだ。だけど、大型化した市場での競争は、プレイヤーを圧倒的勝者と完膚なきまでの敗者に二分する。マニア市場しかなかった頃のような“やや勝者”なんてものはない。敗者になりたくてゲームに参加する者はいないから、やがて寡占は独占にと変わってしまう。自由が消えてしまった理由、それは自由があったことなのだ。