ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

無料ほど高価いものはない(7)

 今、アプリケーションは、無料であることが前提になってしまっている。直接的には、インターネットそのものがもたらした現象だといえるだろう。高度な情報サービスが無償化されてしまったことへの対応として始まり、やがてその独自の可能性が発見されることで進化、一般化してきた。

 “カネ払う派”を自認するぼくですら、もうここからは逃れられない。この文章も、Mac版のエディタ『mi』Google日本語入力と、無料ソフトの組み合わせで書いている(そしてDropboxのフォルダに保存している)。全体としては、OfficeとアドビCS6も使っているから、トータルした場合の“有料度”は低くはない方だけど、時間でみるとやはり無料ソフトの割合が圧倒的だ。

 ただ、これが喜ばしい状態なのか。

 電脳界の一市民として、知っておかなければならないことがある。アメリカ人が好んで使う表現をとれば「フリーランチはない」ということだ。個々のユーザーが直接的対価を払わなくても、作り手はちゃんと対価を受け取っている。つまり、われわれは何らかの形で代償を支払っているのだ。

 それは何か。広告モデルの場合は、金銭的だ。ふだん購入している商品の価格の中にそれが含まれているからだ。一方、非金銭的な場合もある。課金制ネットゲーなら、「課金ユーザーにぼこられて悔しい」だろうし、課金制ソーシャルコミュニティなら「アバターがみすぼらしい格好をしていて恥ずかしい」になるだろう(それらの負の感情を、課金へのインセンティブにするわけだね)。そしてエバーノートのようなグローバルなフリーミアムモデルの場合、これとは違う軸で非金銭的な代償があるといえる。「ソフトウェアの多様性を放棄する」ということ。これが、まさにグローバルにつきつけられてしまうのである。