無料ほど高価いものはない(終)
情報を処理することのキモは、規格の統一にある。
これはコンピュータ登場の前から言えることだ。だいぶ前に軽く紹介した梅棹忠夫『知的生産の技術』はそういうノウハウを体験的に紹介する本だったし、会社や役所が使っている帳票の類も、それが直接的目的だ。また、簿記なんていう技術の体系があるのも、情報の規格統一のためだ。あれは単なる帳簿書きのノウハウじゃなく、「会計上、この部分はこういう前提で経費として扱う」なんてことまでいちいち規格化することで、会社の財務状況という基本的に不可視なものを赤の他人が情報として共有するために、存在している。
一方、自然科学というのも、統一の歴史だ。異なる現象をより上位の統一した原理で説明することをめざすのが、科学というもののDNAなのだ。サイエンスとしての情報学も、熱力学の概念だったエントロピーを情報伝達の単位として採用するところから始まっている。そして物理学の応用として半導体が作られ、その利用法としてコンピュータが作られた。文字だろうが数字だろうが(さらには映像も音声も)同じようにビットの列として還元する、
そういう2つのバックボーンの上に成立した結果として、ITというのは、多様性を基本的に嫌う。全く違うカルチャーを持っている部署にむりやり同じやり方を強要したりするのも、その現れだ。だけど、多様であることが本質である部分に導入すると、その本質のほうが破壊されてしまう。
『ジュラシック・パーク』のマルカム博士が、続編『ロスト・ワールド』(小説版)の中で言っていたセリフに、こんなのがある。
「サイバースペースが完成したとき、
人類は多様性を失い、進化上の死に至る」
そこでテーマになっているのは価値観の多様性の話なんだけど、実際ソフトウェアというのは人間の脳にいちばん近いところにある道具で、それゆえ価値観とか文化とかとの縁も深い。もしWindows95時代の状況が(マイクロソフトの期待通り)永遠に続いていたなら、人はWordの流儀でものを考え、PowerPointの流儀で表現するようになってしまっていただろう。とりあえずその危機は逃れることができたけど、克服したというよりは、新しい局面に入ったということもできる。
というわけで、ぼくたちの戦いもまた、始まったばかりなのだ。