ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

『響』はもっとうまいよ(2)

 日本人がなぜウィスキーを作るんだろうか。

 まあ、サントリーが最初の国産ウィスキーを出したのが昭和一桁の頃だから、現代人のほぼ全員にとって「物心ついた時からそうだった」状態ってことで、いまさら「なぜ」もないものだ。ただ、改めて考えると、そんなもの作らなくちゃいけない必然的理由なんてない。蒸留酒だってちゃんとあったんだし。

 元々日本人というのは、日本に何でもないと気が済まないところがある。海外ではすでに確立しているのにまだ日本にはない“何か”を見つけると、もう居ても立ってもいられない。見よう見まねで始め、やがて「追いつく」を目指しだす。自動車は70年代に追いついたし、バイクは60年代に、船舶や飛行機はさらにその前に(ピンポイントだけど)追いついていた。洋酒の製造というのも、その一つなんだろう。鳥井さんと竹鶴さんのどちらなのかは知らないけど、「まだ日本にはウィスキーがないッ!」と気付き、スコッチを真似て作り始め、やがて追い付こうとしはじめたわけだ。

 この気質は、文化面でも発揮された。伝統的な絵画があったのに、明治になって西洋画の存在を知ると、さっそくそれを始める。戯作や読み本、それに短歌や俳句があったのに、小説や詩などの西洋流文学を作りはじめる。スポーツだって、同じ。大学には、野球部とサッカー部とラグビー部とアメフト部がグラウンドを奪い合っているし、群馬や栃木でスキーをしてる同じ時季に、湘南や房総ではサーフィンをしている。

 というわけで、なぜ日本人がウィスキーを作り始めたのかっていうと、それはこういうしかないだろうね。

  「だって日本人だもの

 でも、この問題はもう一段階、掘り下げられると思うのだ。