ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

選挙に向けて思うこと(9)

 愚行権という言葉を知っているだろうか。

 憲法学の分野で、ごくたまに使われる言葉だ。こんなのウィキペディアにだって載ってない……なんて思ったら、ちゃんと項目になっていた。ただし、ぼくが論じようとしていることとはずいぶん違う。

 憲法学的な意味での愚行権は、リベラルな民主主義国家が国民に対して保証する人権の一つだ。国民は、自分の時間や能力や資金を自分の好きなこと(酒飲んで騒いだり、ゲームやったりマンガ読んだり、重い物持って不要な筋肉を膨らましたり、あるいは『何もしない』に全力で取り組んだり)に使えるということで、直接的には幸福追求権の一態様ということになる。全体主義国家には、これがない。だから、国民は自分の持ち時間を「有意義なこと」に使う義務を持つ。例えば偉大な指導者の思想を勉強することとか、中世の人間が書いた物語を「神の言葉」と信じて勉強することとか、有害な思想を持つ者を吊るし上げるとか、ね。だけどぼくたちは幸いにして愚行権のある国に生きている。

 もちろん仕事をするときは、愚行権を行使したりはしない。オフタイムでも、仕事のための仕入れをしている時がある。でも、そうやって得られる収入はなんのためにあるのか。それができるときに愚行権を行使するためではないだろうか。

 政治家が専門職として仕事にあたる社会の必要性は、回り回ればここに行き着くだろう。もし国民に愚行権が認められないのなら―みんながちゃんと勉強したり討論したりする義務を負うのなら、代議制というのは不要かもしれない。手持ちの空き時間を全て費やして、政策的な全ての問題について勉強し、考え、討論し、ネット上で展開される全ての意見に目を通し、自らも意見を陳述し、最後に投票する……でも、いつゲームすればいいんだろうか。一つ言えるのは、もしこんな社会だったら、ゲーム産業はもちろん、エンターテインメントやレジャーの産業は不要となり、放送、家電、自動車などの基幹産業も、軒並み崩壊するということだ。

 代議制というのは実は妥協の産物じゃなくて、社会における幸福度をグロスで向上させるための貴重な装置なのだ。