ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

学会へ行こうよ!

 DiGRA-Jこと「日本デジタルゲーム学会」という団体があり、ぼくは創設時から会員になっている。ふと思いついてサイトを開いたら、次回の全国大会がアナウンスされていた。
 このブログを書き始めたのは2014年の3月。昨年度の大会が行われた時期だ。行けなかったことへのぼやきみたいなものを書いた覚えがある。既に1年経ってしまったわけで、まあ年寄りになると時間というのは速いものだね。
 仙台ということで、名古屋からだと現実的な交通手段は飛行機しかない。さっそく往路の飛行機を予約した。乗るのは3月だから、特割75が効く。でも、1万4千円もした。ANAが安くなるのは、LCCと競合してる路線だけなのだ。とほほ。
 復路はまだとってない。ボンバルディアのプロペラ機というのは初体験で、もしかしたら揺れとかひどくて、二度と乗りたくないと思うかもしれないからだ。とりあえずダブル新幹線というファンタスティックな交通手段があるし、バスというシュールな手段も残ってる(どう考えたって苦役だが、これでも1万円以上する)。また、同じ飛行機に乗るにしても、たまには株主優待券を使ってみるのもいいし。



 学会とは何か。なんだか権威ある公的機関のように聞こえるけど、実は任意団体だ。
 特定の分野を研究対象にしている人が、それを学問ジャンルにまで高めたいと思っているときに結成する、同好会みたいなものといっていい。結成時点で相当の勢力を持っている場合もあるけど、だいたい新しい分野に取り組んでいる人というのは若手が多いわけで、しばしば准教授〜ポスドクくらいの研究者若干名で始めていたりする。
 ただ、そういうグループだって、思惑がうまくはまり、またメンバーが出世していけば、どんどんと大きくなっていく。そして、実際には、うんと昔からある学会も多い。確立された学問分野とイコールで結ばれるような学会(コンピュータ関係では、電子通信情報学会とか情報処理学会とか)だと、会員は万単位を数える。こうなってくると、同好会というよりは、学者・研究者の“業界団体”みたいなものだ。
 公的な機関認定はない。学問の自由は憲法上の権利なので、宗教と同じく、独立していなければならないからだ。医学分野の診療科目別学会だと「専門医」なんて認定を行っていたりもするけど、まあ彼らは例外的だし、厚生労働省から公認されているのは認定医制度で、学会そのものじゃない。とはいえ、ある程度規模が大きくなり、また活動実績を積み上げていくと、日本学術会議(これは政府の諮問機関で、行政からは独立している)の指定を受けることができ、これがある意味公認団体的な意味を持っている。



 学会に入ると、どんなメリットがあるのか。
 まず、研究発表ができること。どんな学会でも、定期的に全国大会や研究集会というのを開いている。会員になっていると、ここで口頭発表することが許される。
 次に、学会誌に研究論文を発表できること。これも学会全体に共通する特徴で、どこでも会誌(機関紙と論文誌を分けている場合もある)を発行している。本式の論文(『フルペーパー』なんて呼ぶ)を投稿し査読を受けることができるのは、基本的に会員だけだ。
 これがメリットになる人というのは、プロの研究者と大学院生だ。研究者は、査読付き学会誌への掲載論文の数が実績評価の指標になる。一方、大学院生は、それが学位取得の条件になっていたりする。ぼくも、社会人入学で入った大学院生の頃、修士号をとるために、感性工学会というところで口頭発表と論文発表を行った。
 でも、実際に重要なのはそれじゃないと思う。業界団体的な側面、つまり自分の帰属先を宣言できることだと思うのだ。その学会に入っていることで、自分がどの研究コミュニティに属している者なのかを宣言することができる、その機能の方が重要なのだ。
 デジタルゲーム学会は、創設からまだ日が浅い。ただ、スタート時点から著名大学の教授とか業界の重鎮とかが理事に名を連ねる、“相当の勢力を持っている”団体だった。また、学術会議の指定ももう受けているそうだ。とはいえ、まだ“確立された学問分野とイコール”なんてとこまでは来ていない。そもそも、ゲームが確立された学問分野とはとても言えないから。それでも、「ゲームを研究対象と思って取り組んでいる人の集まり」の一員であることを主張できるという意味で、ぼくは会員であり続けている。



 なぜ学会活動を始めたのか。実は明確な目的があった。
 大学教員への転身を目指していたのだ。
 講師業を始めたのは、会社をやめて独立した時だ。以来、「本職はクリエイター、副業として講師」を自認していたのだけど、実際問題として講師はフルタイムでやっていた。何年も続けていくうちに講師業の方が明らかにメインになり、クリエイターとしての経験は、いわば教えるためのネタ集めのようになってきてしまった。
 そこで教員を本職にすることを意識、その上で大学へのステップアップを考えたのだ。
 それはぼくにとって義務感とも言えるものだった。日本のゲーム界の発展のためには、ゲームデザインというものを、誰かがしっかりと学問の軸の上に体系化しなければならない。それができるとしたら、準メジャーのゲーム会社で実務をとり、独立後は日本最古のゲームクリエイタースクールで教鞭をとっていた、この俺ではないか……なんて感じだ。
 だけど、最初の働きかけは、完全に門前払いに終わってしまう。そのまま、負け意識を引きずるのが嫌で、がむしゃらに突き進むことにした。大学院に入ったのも、そのためだ。学位取得後は、感性工学の手法を使っていろいろな実験をし、論文も書いた。そうした取組の先として、博士号の取得も目指した。とにかく追いつこうとしたわけだ。
 でも今はもういい。大学の教員になるつもりはない。
 あきらめたとかそういうことではない。彼らの世界のルールに合わせることに、ぼくはついていけそうにない、そのことに気づいたのだ。



 何がそんなについていけないのか。一言で言えば研究だ。
 大学の教員は「教師」である前に「研究者」ということになっている。だから、研究をしなければならない。
 このことを、ぼくは甘く捉えていた。例えばゲームデザイナーなら、どんなゲームシステムが面白いのかを考えるし、いろいろなインターフェイスの試行錯誤もする。そして「なぜおもしろいのか」への探求も欠かさない。大学教員にとっての研究というのも、こういうものだろうと、漠然と思っていた。
 だが、そんなものではなかった。研究職にとっての研究は、実証を必要としているということだ。経験的に自明なことでも、立証されていない事実を前提に議論を進めることはできない。実験を行い、多変量解析などの統計的な方法でデータを処理し、解釈をする。一方で、文献をあたり、言葉や歴史的事実の一つ一つを数値的に確認していく。「面白い」について実務的に感じていた原理も、研究という軸で宣言するためには、果てしない論証のカスケードを構築しないといけないものだった。
 そして辛いのが、膨大な文献を読まなければならないということだ。
 日本ではほとんど論じられていなかったゲームデザインというテーマ、海外では逆にとてもホットで、分厚い本が月に何冊も出ているほどだ。英語で書かれた論文を一本読むだけだって大変。ついていけるはずがない。
 専門学校の専任教員というのは、いっちゃ悪いけど、いいとこ取りだ。自己研鑚は必須だけど、学術論文は書かなくても(&読まなくても)いい。思ったこと・感じていることをそのまま表明し、学生に伝えることもできる。本だって、関連する全出版物を読まなければならないようなことはない。自分自身が、フィールドワーク的にゲームソフトを作ることだってできるし、学生と同じレベルで悩んだり考えたりすることが許される。さらに言えば、テニュアだ。社会的身分はアレだが(ゲームショウだと、企業の人間に鼻であしらわれる)、まあどうってことはない。



 学会が大きくなると、発生する現象がある。全国大会や研究会が、文字通り「全国」を転々とするようになる、ということだ。力のある先生というのは、必ずしも東京に偏在しているわけではない。旧帝大を頂点とした「国立偉い!」の伝統は、私大出としては不愉快だが(でも、考えてみたら、ぼくは国公立出になってたんだな。大学院が公立だったから)、学術の地方分権という意味ではいいことなのかもしれない。デジタルゲーム学会も、この点で本格化したってことなんだろうか。以前はほとんど東京でやっていたのに、ここのところ全国転々だ。前回は函館、その前は福岡、そしてその前が京都だった。
 歴史ある学会は、全国転々型であることが多い。情報処理学会なんて、温泉地で研究集会を開いている。こうなると、目的が疑わしくなる。ボス教授たちが研究費で旅行をしたくて設定しているような気がしてならないのだ。
 とはいうものの、ぼくにしてもそんなに違うわけではない。研究を放棄した今でも学会に参加しているのは、これまでの活動を通じて知り合った人たちと、たまには会いたいからだ。特に、編集委員をやっていた頃に知己を得た若い友人たち。年に一度しか会う機会はないけど、大人の友情はそんなことでは消えたりしない。でも、さすがに数年に一度では忘れられてしまう。それは切ないんで、今年こそは参加する。
 もちろん、大学教員を目指した当初に持っていた問題意識、これ自体は忘れたわけではない。日本のゲーム界の発展のためには、ゲームデザインというものを、誰かがしっかりと学問の軸の上に体系化しなければならない―この考えは、今でも同じだ。でも、(ゼビウスの)遠藤雅伸さんがやってくれてるらしいので(大学教授をやりつつ、大学院で博士号取得を図っているんだとか。ひとつずつスケールが違うね)、ぼくごときが乗り出すまでもないだろう。



 論文誌は通常「査読」というのが入る。掲載に値する論文なのかを、匿名の研究者が客観的にチェックするというものだ。この厳しさは、学会の権威に直結する。でも厳しくし過ぎると、論文が集まらなくなる。不動の地位を獲得しているような学会なら、何のためらいもなく厳しく査読するけど、まだ日の浅いところや、逆に日が傾いているようなところだと、とても悩ましい問題になる。
 口頭発表の方は敷居が低く、どんなものでも認められるのがふつうだ。そのせいで、ヘンな発表が紛れ込むこともある。以前、工業デザイン系の学会の予稿集を見ていたら、インテリジェント・デザインの発表があって、かなりのけぞった。インテリジェント・デザインというのは、“超越した知性”によって生命はデザインされたとして進化論を否定している一派で、まあ早い話が、聖書原理主義者が科学モードで使用するペルソナと言っていい。日本には無縁だと思ってたら、ネットで調べてみると「創造デザイン学会」なんて組織もちゃんと国内にある。ようはここが勢力拡張のために乗り込んできたってことだろう。でも、工業デザインに関しては、何の関係もないんだけどね。
 「私は、自動車が、ダーウィン原理によって
  自然にできあがったものではないことを、強く主張するッ!」
 なんて言われても、どう答えていいのやら。
 アメリカだと、こういう点でも本場らしい。物理学会とかだと、反重力推進とか宇宙人のメッセージとかを発表する自称研究者が次々と押し寄せてしまうんだそうで、そうしたトンデモ科学はひとつの会場に集めてしまうんだとか。いっぺん覗いてみたいものだけど、英語がわからないとね。