ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ぼくが弁理士をめざす理由(3)

 そもそも、強い権利が、なぜ認められているのか。これは、立場の弱い個人が前提になっていたからだ。近代法の原理は「法の下では平等」で、作家だろうが出版社だろうが、対等の契約主体となる。とはいえ、現実の力の差はあきらかで、これを放置していたのでは、強者にとって都合のいい契約が結ばれ、作家の利益を犠牲に出版社の利益を確保するような状況が生まれるだろう。それは結果として作家という活動に旨味がないことになり、ひいては文化自体が先細りになってしまう。そこで出版社と対等な交渉ができるよう、いわばハンデとして手厚い保護を与えたわけだ。

 でも、今ではすっかり事情が変わっている。著作権者は、しばしば独占的大企業だ。そして、次々と新しい種類の著作物も登場してきている。なのに規則の大元は昔のままだ。時代の変化には小改正を入れるのだけど、これがまた弥縫策としか言いようのないもので、しかも基本的に著作者の権利を拡大するという方向で改正していく。結局、背景にある大きな問題はむしろそのまま温存されてしまう場合が多い。

 問題を体現しているのが、法人著作という制度だ。職務として著作が行われた場合、その著作権は雇い主である法人が最初から持つというもので、作り手側から見ると「職務著作」と呼ぶ。特許にも「職務発明」という制度があるけど、決定的に違う。特許の場合、発明者に原始的に権利がある。発明を完成させた者は、たとえ職務として行った場合でも、「特許を取得する権利」というものを(自動的に)獲得する。そして職務発明の場合、本来は無効とされる事前譲渡の契約が「適切な対価の支払い」を条件に有効とされる。これがあるから、中村修二氏のように数億円もの対価を獲得する(元は200億円請求していたが)ことも可能なわけだし、そうでなくても発明者としての立場が特許公報に書かれるから、名誉ぐらいは残すことができる。だけど、著作権の場合は違う。最初から100%会社のものであり、実際に作った社員は作者とすら認められないのだ。

 そして問題なのが、法人著作の場合でも著作者人格権が適用されるということだ。著作物は思想信条を直接的に表現するものであるため、著作者人格権という非金銭的な権利が定められた。人格権である以上、本来人間にしか認められない権利のはずだ。なのに、法人が著作者である場合も、除外されていない。