ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

野菜も食べなきゃだめ!

 この文章を書いている今、センター試験の初日が終わったところだ。
 ぼくが対象年齢だった頃にあったのは、共通一次試験だった。5教科各200点で、1000点満点。これは今のセンター試験でも同じ。ただ、内容と方式は大きく違っている。というのも、共通一次には、選択の余地がとても少なかったのだ。
 センター試験だと、使われる科目が大学によって異なっている。そして科目の中身もきめ細かい。でも、共通一次は違う。数学国語は全員共通(国語なんて、古文はもちろん、漢文まで出る)、外国語も英独仏のどれかという選択だからほとんどの高校生にとってはやっぱり共通。そして理科と社会(地歴公民の全部ね)も2科目ずつ選ばないといけない。生物や世界史なんてかなりの勉強量を必要とする科目なのに、各1/10の配点でしかない。でも、捨てるわけにはいかない。一次試験は、合計1000点のうち何点とれたかで判断され、理系だろうが文系だろうが、科目ごとの傾斜配分などは行われないからだ。
 かなり乱暴な仕組みといえるだろう。ただ、実はこの乱暴さにこそ、“栄養分”があったように思う。こういうものでもなきゃ、教養なんて身につかないんじゃないかと思うのだ。



 こういうこと言うと、本格教養主義者(教養原理主義者?)は嗤うかもしれない。でも、教養もまたスケーラブルなものだ。「完全に身につけていない以上、それはゼロと同じである!」なんて切り捨てるのは、否定という結論にむりやり結びつけるための詭弁にすぎないだろう。
 現実問題として、古典文学なんて、当たり前の生活送ってる中で興味持つわけがない。それでも源氏とか古今とかを一応ありがたがったりできるのは、人生のある時点で無理やり付き合わされた経験があるからだ。「春はあけぼの、いとおかし」だの「ゆく川の流れは絶えずして」だのといったフレーズに興味を持てば、その上下左右にだって興味も持てるし、またそれなりにリスペクトすることもできる。受験科目としての古文それ自体は小さな存在だとしても、そこには広がりがある。豊かな文化を垣間見せてくれる窓だとも言える。
 これは、例えて言うなら、幕の内弁当に入っている惣菜だ。それ自体は小さなものでしかないし、最高水準の逸品というわけでもなく、食べたところでその料理を堪能したことにはならないだろう。でも、そういうものがあるということを知るきっかけにはなる。



 まあ、流れから教養論のような感じになってしまったけど、本格的なそれはちょっと手に余る。ぼくが言いたいのは、もっと(ぼくにとって)身近な話。ゲーム屋あるいはゲームデザインのティーチャーとして感じているプロブレムだ。
 今どきの若い連中はものを知らないなあ、ということだ。
 例えば、RPG。当然これは、西洋(っぽい)の中世(みたいな)世界が舞台になる。もちろん「ぽい」「みたい」なのであって、そのものを描くわけじゃないから、正確な知識が必須なわけじゃない。だけど実際には、正確も何も、土台になる知識がまるっきり欠けている者が多いのだ。カトリックとプロテスタントの違いすら知らないし、王侯貴族の類型もわからない。歴史もそうだ。十字軍があり、百年戦争があり、三十年戦争があるのに、どれも全然知らず、神聖ローマ帝国と古代ローマ帝国がごっちゃになってる始末。いや、選帝侯の名前を諳んじろとまでは言わないけどさ(でもブランデンブルク辺境伯ぐらいは知っててほしいなあ)、「皇帝」って、ゲームにかぎらず頻出概念なわけで、王と皇帝の違いすら知らないまま作り手として使うなんて、気持ち悪くないのかな。
 ことは歴史だけじゃない。そもそもヨーロッパの国を全然知らない。白地図使って「ルーマニアとブルガリアは、どっちがどっちかな〜?」みたいな部分で意地悪してやりたいのに、ドイツやフランスの時点でもうギブアップなのだ……大げさなこと言ってるって思うでしょ? でも、ほんとうなんだよ。国境線の書いてない地形図で「どのへんか」って出題すると、ほぼ半分の人間が間違える。境界線まではっきり答えられる学生なんて、ほんと例外的なんだから。
 ただ、本当に問題なのは、知らないことじゃない。知らないことを恥と思っていないことだ。
 「ぼくたちは理系だから、そんなこと知らなくても問題ない」
 これが彼らの世代にとってはむしろ常識的態度なのだ。



 実際に切実なのは、知識面じゃない。因果関係を推測する力の不足だ。言い換えると、「原因と結果の間にある複雑なメカニズムに対する関心がない」ということだろうか。
 歴史を学ぶ理由というのは、そのあたりを理解することにある。アメリカ合衆国はなぜ独立を成し遂げたのか。ワシントンが天才軍略家だったからじゃないし、フリーメイソンが暗躍したからでもない。これはサイエンスだって同じだろう。酸素・炭素・水素の結合それ自体は実に単純明快な原則で理解できるけど、現実に起こっている自然現象はそんなに単純じゃない。システムとしての全体的な理解が必要になる。
 で、こういう意味での教養がたりない人=因果関係を推測する能力が不足している人は、やたらと性急に答えを求めがちだ。理論家としては素朴すぎて使い物にならないが、実務家としてはもっと有害になる。あるテーマには、様々な要因があり、それが相互に関係を持ちながらシステムを作っていて、いろいろなアウトプットを生み出している。でもその種の人間は、この中の特定の要因と特定のアウトプットだけを見て、その両者を直線的につなぎ、場当たりな対策に突っ走るのだ。
 歴史上の例としては、こんなのがある。50年代の中国で、毛沢東の指導下で行われたスズメ撲滅運動だ。
 「スズメはコメを食害する悪い鳥だ。滅ぼせば収穫量が上がるッ!」
 そんな絶対権力者の号令に誰も逆らえず、数億人(当時)の国民を挙げての撲滅運動が展開された結果、害虫が大量発生して大凶作となり、恐ろしい数の餓死者を出すに至った。
 こういうタイプの人がゲームデザインをすると、どうなるか。
 最近のソーシャルと称するゲームカテゴリーが、とにかく暇つぶしゲームばかりだということが、どうにも無関係とは思えないのだ。「人はなぜゲームに対して楽しいと思うのか」は、本来はとても複雑なシステムの中に潜んでいる問題だ。ところが、彼らは自分に解る範囲の一問一答で済ませてしまう。
 「端末をいじっていると楽しい」
 これでただクリックしているだけのようなどうでもいいようなソフトを作るんじゃないだろうか。
 独裁者の思いつきとは違って、餓死者を出すことはない。とはいえ、ゲームという畑はやはり凶作に見舞われつつあるんじゃないかと思う。こういう発想しかできない人間によって業界ピラミッドの上の方まで占められてしまったら、もう日本のゲーム産業の未来はない。



 以上展開してきた議論を、国語の試験よろしく「著者の主張」としてまとめると、こうなるだろうか。
 「知的階層に必要な“教養”を涵養するためには、
  全科目フルコース型の一次試験を全員に課すべきである

 うーん、別にこういうこと言いたいわけでもないんだけど。ただ、好きなものだけを熱心にやるというのは、大人の勉強の話だと思うのだ。
 対極的な例として、旧制の学校制度があげられる。
 旧制高校というのは、エリート予備軍の学校だった。官立の場合だと、卒業後どこかの帝国大学に進学することが約束されていた。コースも、文科系と理科系に分かれている。でも、エリート育成だからといって、早期専門教育が行われていたわけじゃない。むしろ逆で、教育内容はずっと一般教養のままだ。しかも学生たちの間に「役に立たないことをするのが偉い」という気風があって、勉強らしい勉強といえば哲学ぐらい(『デカンショ節』の“デカンショ”っていうのは、デカルトとカントとショーペンハウアーのことだ)。そして実際には、人生勉強と称して、酒飲んだり女郎屋に通ったりが、彼らのいちばんの関心事だったという。
 選択の自由というのは、リスクを伴っている。機会損失、つまり「それをしている間は他のことができない」リスクだ。今、総合科というのが根付いたことから、高校レベルでも、選択科目の幅が、場合によってはものすごく大きくなっている。



 さて、ここまで書いてから、カミングアウトすべきことが、ひとつある。共通一次世代と言いながら、実はぼくは、現役の時、受けていないのだ。
 そもそも高校が筋金入りで、2年の時点で進学クラスを「私立文系」「私立理系」「国公立」の3つにコース分けしてしまっていた。私立文系コースだと、2年生の時点で理科の授業はゼロになる。数学は週2回(しかも公立高校を定年退職したおじいちゃん講師に担当させるという、実に本気度のない配置。さらに、この人が仕事以外のことに妙に熱心で、授業の半分以上は天下国家を論ずる講話だった)。反面、英語と国語は週10時間ずつで、毎日以上の比率で受けることになる。
 そして社会科。ぼくは子供の頃から政治とか経済とかが好きで、高校の「政治経済」も、科目としての履修が始まる前から勝手に勉強していて、模試でももっぱらそれで受けていた。予備校生と競いあう全国模試でも、2年生にしてちゃんと偏差値70前後をとれてたから、まあ他の科目に移ろうという気にはならないよね。授業としては、地理、日本史、世界史もやっているけど、それだけだ。定期テストの期間も含め、家庭学習ほとんどゼロでパスしていた。まさに、教養主義的にダメダメな受験生だったのだ。
 でも、再受験のときは選択肢を減らすこともできなくて、共通一次の勉強もした。選んだのは、生物と化学、そして世界史。結局私立に入ったから入学の役には立たなかったけど、やってよかったと感じている。そのための勉強をしたことで、同じステージに上ることができたと思うからだ。
 今ゲーム業界を志している若者層の多くは、そもそも大学受験自体の経験がなかったりする。現代の専門学校というのは、必ずしもオルタナティブな進学先じゃないから、早い段階で決めてしまったりもするんだろう。特にゲームのような、大学にその進路に直結した学部がない分野だと、なおさらだ。
 そういう人には、受験学参の読破をおすすめしたい。綺麗で読みやすいし、値段もそんなに高価くないしね。どんなゲーム作るにしても、地理と世界史ぐらいは知っといたほうがいいよ、ホントの話。