ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

テニスについて少々(終)

 ゲームの話も一応区切れたので(これ以上続けると、スポーツゲーム一般の話題になってしまいそうだ)、錦織選手に話を戻して、シリーズを締めることにしよう。

 錦織とくれば、胸に輝く「ユニクロ」のマーク。これはかなり印象的だ。もちろんプロ選手なんだから、スポンサーロゴなんて珍しくもない。だけど、ここまで“日常”をまとっていることは、あんまりないだろう。ナイキとかアディダスとか、非日常なスポーツブランドのマークが付くのが当たり前なのだ。

 見ようによっては、これほど痛快なこともない。というのも、スポーツブランドに対する挑発ともとれるからだ。

 スポーツ衣料は、とても高価だ。メーカー側も「最先端の素材」とかなんとか言いながら、この価格体系を正当化する。そして、実地で示してみせるのが、契約プロ選手。彼らの活躍によってメディア上でブランドが繰り返し映しだされ、彼らの実績が持つイメージを自分自身の中に取り込みたくて、プレイヤーは何万円かを払う。

 だけど、結局のところ、モノを言うのは素材であり、それは化学工業の会社で開発されている。スポーツブランドなんて言ったって、しょせんはそれをお金払って買ってくるだけで、アパレル一般との違いなんてなにもない。スポーツブランドが宝物のように扱い続けてきたものが、実はただのガラス玉なのかもしれないということを、錦織の胸のマークは暴いてしまうのだ。

 考えて見れば、ユニクロっていうブランドは、元々そういうものだった。工業化の時代においては、数をまとめられるものが強者だ。例えば“あったかい”にしても、フクスケみたいなそれ専門でやっているところが「老舗の技」イメージに基いて築きあげたものを、数の力で奪い取ってきたのがユニクロだ。

 ただ、ひとつ不満なことがある。せっかく契約選手がメジャーになったのに、ユニクロがスポーツ衣料の販売をちっとも再開しないことだ。コンプレッション系のインナーやスパッツなどの本格的なものもそうだし、ウィンドブレイカー程度の汎用性があるものも同じ。以前ずらりと並べてたのに、一昨年シーズンからぱったりと消えてしまっている。

 ぼくたち消費者からすれば、ユニクロは解放者でもある。王侯貴族にしかまとうことの許されなかったものを、低廉な価格で提供してくれるからだ。まあ実はぼくはナイキ愛好者でもあるんだけど、それはそれとして「ユニクロスポーツ」を復活してほしいと願ってもいるのだ。