ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

最新という憂鬱(7)

 気づいたら、だいぶ違う傾向の話になってしまっていた。愚痴りたかったのは、20年も前のWindows体験のことじゃなくて、次のような愚痴なのだ。

  「新しいパソコンにときめかない……」

 パソコンそのものが成熟したということだろうか。昔は、新型であれば、全く新しい種類の体験が得られた。でも、今では程度の違いでしかない。

 ただ、それ以上にぼく自身のパソコンへの思いが枯渇したのかもしれない。

 思えば、3.0のWindowsに惹かれたのも、Macへの思いからだった。当時のMacは、70万円ぐらい払わないとカラー環境が得られず、どうにも手の出ない代物だった。それが、「ふつうのパソコンでGUI環境が手に入る」とくれば、色めき立たないわけがない。まあ、実際には「ようなもの」ですらなかったのだけど、とりあえず高解像度の画面は得られたわけだし、それは一応ときめくようなものではあったわけだ。

 少し前まで、パソコンは階層化された可能性の箱だった。CGムービーを作ったり、映像編集をしたり、いろいろな用途に使える。ただし、全部できるのは、頂点の方のマシンだけ。人にとって実際に買えるマシンは身の丈に合ったマシンだけで、それがなし得ることというのは、どうしても限定されたものだったのだ。その結果、不全感が残る。そして、1年か2年かして買い換えるとき、たとえ自分の身の丈が変わらなかったとしても、ムーアの法則のお陰で「夢が叶う」が実現していることになる。

 でも、今のパソコンは、かなり平等化してしまった。ソフト自体の価格はあるものの、かつては高嶺の花だった3DCGだって、たいていのマシンでできてしまう。