ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

ほんとは256倍くらいかな(終)

 なんだか本題から外れて、だらだらと続いてしまった。ほんとうはカラパイアで見た記事へのコメントだったのだけど、いつの間にか「批評論」になってきてしまった。そういうのはそういうので改めて書くとして、本題に戻ってまとめてしまおう。

 全体としておもしろいと感じたのは、「ライターからクリエイターへの転身」という、この人の経験の方だった。アメリカではそういうのがあるんだね。日本でもあるのかもしれないけど(直接の知り合いにはいないけどね)。

 人材の交流というのは、一般論としては、いいことだ。でも、批評家と創作家が相互にポジションを替えるというのは、どうだろうか。少なくとも、批評の方において切れがなくなってしまうであろうことは、否定出来ない。

 ぼくは、ゲームもまたきちんとした作品批評の対象になるべきだと思っている。デザインというのは、工業・商品・芸術の3つの要素を持っているのだけど、今のゲームの論じられ方は、あまりに前二者の側面に偏りすぎているように思う。芸術側面=作品性へのしっかりとした批評が、なるべく早く確立しなければいけない。

 その意味で、たぶん必要なのが、人材プールだ。きっちりと批評する上では、「お友達」であってはやりづらい。ましてや自分自身が創作家であったのでは、どうしたって甘くなる。だから、批評しかしない人材プールが存在しているべきだ。創作家とは交流せず、また創作者を目指しもしない、批評家だけの集まり。これが単独で成り立つぐらいに大きく育っていないと、批評は確立したとは言いがたい。

 でも、同時にこうも思う。一人の人間としては、両方のモードを体験できたほうがだんぜん面白いのだ、とね。ゲームという題材に対して、ぼくはゲームデザインという切り口から関わってきた。当初はクリエイターだったけど、今は教師。この両方のモードでアプローチできたことは、とても楽しい経験だったと思っている。

 ミクロとマクロ、両方が満足できる道もきっとあるんじゃないかとは、思うけどね。