ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

直球勝負、ゲームデザイン!(11)

 ゲームを知らないことには、ゲーム屋志望としては話にならないという話だったが、ゲームだけ知っていればいいというものではない。

 作品としてのゲームには、文芸・美術から映像・音楽に至るまでの全要素が含まれている。だから、知っておくべきことというものにも、当然それらについてが含まれる。具体的に言えば、小説やマンガを読み、美術館や劇場に足を運び、音楽を聞き、テレビや映画を観る。それも、最新の話題作だけではだめだ。スタンダード・ナンバーや古典まで。特に“積極的に”とことわる以上、単に「ああ面白かった」ではだめで、作り手の視点でそれを分析できるようでないといけない。

 でも、それだけで足りるんだろうか。ゲームの作り手になるためには、これじゃまだ不足だ。ゲームソフトはシステムであり、多くの場合、現実界に存在する何らかのシステムを抽象化して成立しているからだ。例えば「スポーツ走行を中心とした自動車」というシステムに対して『グランツーリスモ』がある。だから『グランツーリスモ』を作るためには、単に愛好家水準で車を知っているだけでは不足だ。「そこまで気にするやつはおかしい」って言われるぐらいまで知っていないと、とてもデザインすることはできないだろう。

 車は現実界にあるシステムだから、どうしても大きく深くなる。でも、空想の世界だって、簡単じゃない。魔術に錬金術、聖書にクトゥルフ、妖精学に悪魔学、そして古今東西の武器防具……ファンタジーひとつ作るにも、膨大な量の知識が必要だ。

 で、この結果として、「全部優先!」な絶望感が出てきてしまうのだ。

 前々回から書いている「学ぶべきこと」は、もう恐ろしい量になっている。はたして、どれだけの時間が必要だろうか。『マトリックス』でネオがカンフーをマスターした時のような仕掛けでもあればいいのだが、実際には時間は物理量だ。学校の授業なんて、せいぜい週30時間程度のもの。それが前期後期各15週程度続いて、1年は終わりとなる。

   何かを部分的に知っているということは、

   何一つ知らないことと同じである。

 バートランド・ラッセルの(だったとぼくは記憶しているけど、違ってたらごめん)この厭味ったらしい言葉が、リアルに響いてきてしまうのだ。