ゲームは究極の科学なり

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『その女、アレックス』を読んで(1)

 『その女、アレックス』を読んだ。

 なんで手にとったのかわからない。買ったのは学校近くのブックオフで、ぼくはここでは新書やビジネス書を中心に買っていて、小説のコーナーにはあまり立ち寄らないからだ。なのに、ふと立ち止まり、手に取り、そのままレジに直行してしまった。

 強いて言えば、タイトルに惹かれたからだろうか。

 この邦題、『その男ゾルバ』を素直に連想させる。付けたのは翻訳家か出版社なわけだけど、本歌取りってことだろうか。原題はそのまんま『Alex』。主人公の名前だ。

 こういう、キャラクター名だけのタイトルってやつは、どういうつもりで付けてるんだろうか。ぼくはそんなことをよく考える。

 タイトルというのは、作品そのものの標章だ。だから、内容に対する十分な情報量を持っていなければならない。なのに主人公名だけ。どこかの少年漫画誌『京四郎』なんてタイトルのマンガがあったけど、これ「主人公は日本の男性」である以外には、何一つ情報がない。コミックスなんてのは連載の読者が買えばそれでいいのかも知れないが、主人公への思い入れが何一つない新規顧客にとっては、いい悪い以前の問題だろう。

 必要なのは情報量であってデータ量ではない。『マジソン郡の橋』のタイトルが、『恋に落ちたマジソン郡の人妻フランチェスカ、橋を撮りに来たカメラマンとの熱き一週間』なんてのじゃ、誰も読みたくなくなってしまう(テレビ欄にはこれに近いのが見受けられるけどね)。ズバッと短い言葉で伝えきらないといけないのだ。

 そして、単に情報を伝えるだけではだめで、人の心に訴えかける魅力的な言葉になっていないといけない。憶えやすいこと、語呂がいいこと、魅力的な単語を使っていること、新鮮であること……それらの高水準な組み合わせということだろうか。

 こんな要求を同時に満たす固有名詞を考えるのは難しいけど、商品の売れ方には決定的な影響を与える。だから『世界の中心で、愛をさけぶ』みたいに、恥ずかしげもなくタイトル泥棒をするような本まで現れるわけだ。

 ただ、実は原題の方でも本歌取りをしているのかも知れない。“ゾルバ”の原題は『ゾルバ・ザ・グリーク』だけど、主人公のフルネームが“Alexis Zorba”。欧米の読書人たちにはAlexってだけでゾルバを連想させたのかも。まあ単なる偶然の可能性はあるけど、邦題を付ける側には大きな示唆になったんだろう。