ゲームは究極の科学なり

フルタイムの教員モードに入っている企画系ゲーム屋があれこれ綴ります

シッポは既に導火線(2)

 法学生だった頃はあまり資格試験とかに熱心ではなかった(そもそも政治学科だったしね)。一応それっぽいものは、おとなになってから一つだけ取った。その名も「ビジネス実務法務検定」、商工会議所の主催で大々的にやってるから、格付け的には日商簿記2級程度かな。ただ知名度では、ぜんぜん大したことないし、名刺に刷り込む気もしない(主催者は『ビジネス法務エキスパート』を名乗ってもいい、なんて言ってくれてるけどね)。

 今取り組んでるのと同列で語るべき大きな試験ときたら、やっぱり司法試験だろう。ぼくはこれを1回だけ受けている。

 法律の勉強は、主観的にはとっても力を入れて取り組んだ。とはいえ、特に合格したかったわけでもないのだ。浅田彰さんの『逃走論』に始まるニューアカブームの洗礼を受けたぼくにとっての法学は、「世界の仕組みを探るための現代思想的な取り組みにおける一つのモード」たるべきものであって、社会生活を営むための道具としての側面には、あまり関心がなかった。

 なのになぜ受けたのか。デフォルメすると、こんなところだ。

  「弁護士志望の俗っぽい連中が受ける試験なんだよね。

   まあ、アカデミアに身を捧げるつもりのこのボクも、

   一応付き合っておいてはあげるべきかな

     ※これでホントに受かってたらー受かる実力持ってたら、

      すごく嫌なやつですね。

      でも、教授になる人ってみんなそうなのかな?

 ただ、言えることがある。

 あの頃、法律の勉強はすごく面白かった。一方、今やってる弁理士試験の勉強は、うんざりするほどに面白くない。その理由を、これまでぼくは試験そのもののせいだって思っていた。だけど実際の試験日が近づいた今になって考えると、単に「合格したいかどうか」の問題だったのではないかとも思えるのだ。